定 点 観 測 |
阪神高速道路空港線・原田元町/勝部1丁目 |
1970年(昭和45年)千里丘陵で開催される『日本万国博覧会』に向けて、北摂地域はめまぐるしい開発ラッシュに見まわれた。伊丹飛行場が拡張され大阪国際空港と名を変えるのもこの次期である。 大阪の中心部から豊中西部を縦断して、空港からさらに池田方面へと繋がる幹線道路の建設が始まった昭和40年頃の写真。 元々は「歌島線」と呼ばれていて、戦後の伊丹飛行場と国道2号線の歌島交差点とを結ぶ道路で、この工事が始まるまではジャリ道だった。勝部からは小学校へ行くにも、中学校へも、また最寄の駅阪急岡町へ行くにも、この道を横断しなければならなかった。 まだ小学校へ上がる前だったと思う(昭和20年代後半)、この道を進駐軍の兵士が乗ったジープが砂煙を上げながら走って行くのが見られた。たまに若い日本女性を助手席に乗せて通る姿も見た。道路の側にはまだ戦争当時の高射砲陣地や兵舎跡が残っていて、子供たちの遊び場になっていた。 写真は高速道路空港線の橋脚が次々と建設されていく様子が写されている。左のブロック塀は、当時あった矢部牧場の敷地のようだ。今は更地になってフェンスで囲われている。 2006年8月30日更新 |