原田小学校1.2年のアルバム
(写真上)原田小学校入学当初のクラス集合写真。校長は四代目となる安松校長先生。1年3組だった私の担任の佐藤マサ子先生は浮世絵の美人画を思わせる優しい先生だった。
戦後ベビーブーム世代といわれた我々世代の中でも、私たちの学年は最も生徒数の多い学年だった。兄弟も多く”年子(としご)”と呼ばれる一歳違いや一学年違いの兄弟が多くいたのも我々世代の特徴だった。このような年子のいる家庭では、同性ならば間違いなく衣服は上からの”お下がり(おさがり)”だった。また、教科書も上の学年の子が使った教科書を下の子が使う”使い回し”も当たり前だった。
当時は1年生から2年生は”持ち上がり”といって同じクラスで同じ担任という学級編成だった。
写真上は2年生の3学期の終りに入学からの2年間の記録を「おもいで」という文集にして残して下さったもの。半世紀を経た今でも当時の佐藤マサ子先生の熱心な思いが伝わってくる内容です。
昭和32年頃、2年生の3学期の学芸会のあと母親と生徒たちの集合写真。当時の母親の外出着はほとんどが和服だった。4月になると3年生に進級し、クラス替えも行われ担任の先生も代わることになる。
(写真上)こちらは1年1組。担任は吉岡先生。ちょっと性格のキツイ先生で、あだ名が「七面鳥」だったと記憶しています。
(写真上)こちらは2組、星野先生の担任色白でぽっちゃりした先生
(写真上)2年生の3学期の終わりの2組のクラス集合写真。近江先生を真ん中にして一人ひとりの無邪気な表情がよく捉えられています。
(写真上)近江先生と弟や妹を連れた母親たちとの集合写真。
昭和31年頃の運動会風景。二人三脚のリレー
当時小学校の運動会と言えば地域の一大イベントだった。家族総出でお弁当を持って子供の応援。お昼には生徒も家族と一緒にお弁当を食べるのが楽しみだった。そしてお弁当の定番は”のり巻”だった。

この頃は運動会用に”地下足袋”という履物があり、リレーに出る選手は足のふくらはぎに「サロメチール」という軟膏を塗るのが流行っていた。このサロメチールを塗ることで”早く走れる”ということだったようだが、実際に早く走れたかどうかは怪しいものだった。サロンパスのようにスゥースゥーした臭いだった。
(写真上)2年生の終りにグループごとに分かれて記念写真を撮ってもらった
(写真上)昭和28年ころの先生方の写真。最上段左端の男性と左側に立っている着物とモンペ姿の女性たちは「小使いさん」と呼ばれていた人たち。今は「用務員」とか「校務員」という名で呼ばれています。
(写真上)昭和31年5月2年生当時の春の遠足で「満願寺」(兵庫県川西市)へ。
(写真上)酒井秀美さんと小谷守孝さんの幼なじみのツーショット
50数年の歳月を隔てて再びツーショット(2009年6月の同窓会で)