あの頃の世相と出来事  
私が小学生時代を過ごした昭和30年代前半は、戦後の混乱期を脱し、日本の社会がようやく安定しつつあった時代でした。
そして、新しい家庭用電気製品が次々と世に出始め、庶民の生活様式が大きく変わりはじめた時代でした。

昭和35年(1960年)、当時の池田隼人首相がいわゆる「所得倍増計画」を発表して、日本は高度経済成長期に突入するわけですが、まだ一部分では戦争を引きずっている現実もありました。
新しい時代へ素早く移り変わっていく人もいれば、それに取り残されていく人もいるという、いつの時代でもそうした明暗が分かれる現象がありました。

また、敗戦の教訓から極端な平和主義や無分別な自由と平等がはびこり始めた時代でもありました。
こうした時代の変化を当時の新聞記事などから、あの頃の世相と出来事を振り返って検証してみたいと思います。

2023年2月13日 更新 
昭和32年(1957)9月30日日航機不時着炎上事故 
 
 勝部の田圃に旅客機墜落炎上
昭和32年9月30日午後9時40分頃伊丹飛行場を離陸した東京羽田空港行き日航上り108便「雲仙」DC4型機(前島久光機長)が離陸直後エンジンの故障で豊中市勝部の水田に不時着炎上した。 
 
  
この事故で機長を含む5名が負傷したが死者はなく、機長のとっさの判断と乗務員の適切な避難誘導により大惨事には至らなかった。事故機は不時着の際水田近くの送電線に引っ掛け勝部の村中が停電した。重傷を負った機長を含む5名の負傷者は豊中市民病院に収容された。 
 
事故機の乗客の殆どが有名大企業の社長や役員であったことを思えば、当時大阪ー東京間を飛行機で移動する人はそれなりの社会的地位にあった限られた人たちで、一般庶民が気軽に利用する乗り物ではなかったことがわかる。当時の国鉄はまだ新幹線はない時代で、在来線で「特急つばめ」が大阪ー東京間を片道7時間30分ほどかかって運行していた時代でした。

因みに当時の大阪ー東京間の国鉄旅客運賃は片道1,170円。日航の伊丹ー羽田間の旅客運賃は片道6,300円。
この事故機の乗客の中にのちにテレビ草創期に司会者として活躍する三木鮎郎氏(33)がいた。当時の朝日新聞の記事によると「ボードビリアン三木鮎郎」と紹介されている。一方毎日新聞大阪版では「ラジオテレビ作家」として紹介されている。
このころは「テレビ番組の司会者」という彼の仕事が確立していなかったため、彼を紹介するための肩書が曖昧だったようです。
 
 
 昭和33年の国鉄東海道線の改正時刻表では、大阪駅を朝9時に発車する特急つばめ号は夕方4時半に東京駅に到着します。7時間半もかかりました。それに比べれば飛行機で約2時間で行くことができるのは魅力だったのでしょう。
 昭和33年の国鉄時刻表―拡大版
 
事故機「雲仙号」は米国ダグラス社製で昭和21年(1946年)製造されたもので、前年(昭和31年)4月キャピタル航空から2億5千2百万円(当時の為替レートで70万ドル)で購入した中古機だった。この日の運行状況は夕方5時56分下り105便として羽田を出発、8時9分伊丹に着陸した。(当時は伊丹ー羽田間を1時間55分で運行していた)帰路の燃料は充分だったので燃料補給せずに9時36分離陸した。この時点で正規のダイヤから1時間11分遅れていた。(当時羽田ー伊丹間は1日5便運航されていた)
滑走路直前始動ではエンジンに異常はなかったらしい。エンジン全速回転で滑走約1分、機首を持ち上げ離陸操作をした。この直後4番エンジンから火を噴いて不調となり、パイロットはとっさの機転で4番エンジンのスイッチを切った。しかし、続いて1番3番エンジンが不調となり、瞬間の判断でパイロットは実った稲田に胴体着陸の決心をした。

この事故で全治1ヶ月の重傷を負った前島久光機長(38)は18歳で陸軍飛行学校に入校、戦時中は陸軍の輸送班に所属して南方の空をかけ回った。戦後復員して日航に入社、飛行時間は戦前から通算して9千3百時間というキャリアを持つベテランパイロットだった。

 
 
  
機長の冷静な判断と操作技術もさることながら、小島(23)松浦(22)二人のスチュワーデス(当時はこういう呼び名であった)の落ち着いた乗客誘導も賞賛された。実った稲田の上を約80メートルすべり、止まったところで左方昇降口が開いた。『落ち着いて下さい』という二人の呼びかけに51人の乗客は整然と機を離れた。そしてこの直後機体は火を噴き約一時間燃え続け垂直尾翼だけを残して鎮火した。 
 
事故当時私は小学校3年生だった。まだ家にテレビがない時代だったので、夜9時には就寝するように親から躾けられていた。従って事故当時は夢の中で、翌朝母親から事情を聞かされることになる。翌日登校するとクラスの中ではこの事故のことが話題になっていて、『放課後に事故現場を見に行こう』というクラスメイトがいた。私も午後帰宅してランドセルを置くなりすぐに事故現場に駆けつけた。事故現場の稲田は稲刈り前の田圃が一面黒こげになっていて、辺りにまだ焦げくさい臭いが漂っていた。
この事故の10年後には飛行場の拡張工事が完成し、勝部の村から多くの住民の転居がはじまり過疎化が進んでいった。
 
月刊漫画雑誌の時代 
 テレビが一般家庭に普及するまで子供の楽しみ娯楽は漫画雑誌だった。小学校高学年になってから「少年マガジン」「少年サンデー」といった週刊の漫画雑誌が登場するが、それまでは月刊漫画雑誌が主流だった。仲良しの子供の間でお互い違った雑誌を買って、それぞれ交換や貸し借りして楽しんだ。

この月刊漫画雑誌には毎号付録が付いていて楽しみの一つでもあった。付録は本体の連載漫画の続きが小冊子の形で出されていてる。
また簡単な紙の模型や工作なども付録になっていたが、事前の宣伝案内から想像していたモノとはほど遠くがっかりさせられた。 
    
    
 
 これらの多くの連載漫画からテレビの時代になって、映像化ドラマ化されたものが出現し人気を得た。 
    
    
 同時代、女の子向けには少女漫画雑誌も出ていた
   
   
 男の子向け女の子向けどちらの雑誌にも連載を掛け持ちする人気作家がいて後に大家となった作家が多くいた

当時の人気作家を思い出してみると、手塚治虫を筆頭に武内つなよし、桑田二郎、福井英一、横山光輝、堀江卓、寺田ヒロオ、関谷ひさし、山根青鬼・赤鬼兄弟、藤子不二雄、赤塚不二夫など多くの作家が活躍していた。
 
 昭和34年(1959)3月同時に少年向け週刊コミック誌が創刊されます。小学館から「週刊少年サンデー」、講談社から「週刊少年マガジン」の2誌です。
4月8日の新聞には「週刊少年サンデー」第3号の発売広告記事が出されていますが、その内容は現在のような漫画雑誌ではなく、少年向け情報誌のようなものでした。 値段は30円、同じ日に広告が出ていた「週刊明星」は40円でした。
 テレビの時代
 テレビの放送が始まったのは昭和28年(1953)のことだが、まだ一般家庭のテレビの普及率は低く、放送局もNHKのみで、民放の開局はそれより半年遅く見る番組も少なかった。
小学校2年生頃だったと記憶しているが、同級生の家に遊びに行って、そこで初めてテレビを見た。その同級生はサラリーマン家庭の比較的裕福な家だったようだ。

この当時10万円もするテレビを買うことができるのは、収入の多い優良企業のサラリーマン、高収入が安定した自営業者、そもそものお金持ちで、安サラリーマンや毎月現金収入が見込めない農家などには高嶺の花だった。

私の家にテレビが付いたのは昭和34年4月8日のことだった。2日後の4月10日は当時の皇太子ご成婚の様子がテレビ中継されるというので、かなり無理をして買ったらしい。白黒テレビの14インチ画面、メーカーはビクターだった。
この日から毎日テレビを見ることができる楽しみと、新聞のテレビ欄をチェックするのが日課となった。

我が家にテレビが来るまでは、近所のテレビのある友達の家に行って見せてもらったりしていた。
町内でもまだテレビのある家は少数派で、『テレビを買った』という情報はたちまち近所に知れ渡り、『あそこの家テレビ買わはったで・・・』と。そして、二、三日後には『どんなテレビ?』と見にやってくる。

やがて数年でテレビのない方が少数派になると、こうした現象はなくなって、むしろテレビの無い家の子供は肩身が狭くなった。

何はともあれ、「家にテレビが付いた」という感激は忘れがたい思い出です。
生まれたときから家にテレビがある世代、物心ついたころにはテレビがあった世代の人にはこの感激は理解できないだろう。そういう意味での世代間のギャップは存在する。

 
 
 
 昭和30年代に入って家電メーカー各社は次々に新しい製品を世に送り出して、庶民の生活様式は大きく変わり始めた。
我が家がテレビを買った昭和34年当時の大卒公務員の初任給が10,200円、高卒公務員の初任給が6,700円。喫茶店でのコーヒー60円、新聞購読料1か月330円、週刊誌40円の時代だったことを思えば、テレビはかなり高額な買い物だったことが判る。

昭和34年当時のテレビの普及率はまだ34パーセント程度で、この5年後には90パーセントを超えることになる。これによってテレビの社会に与える影響力は一気に増大する。
ただ、ここでのテレビの普及率は、あくまで都市部のデーターで、地方へ行くと電波の届く地域が限られ、特に山間部では映像の写りが悪く普及はずいぶん遅れた。

 
 昭和34年4月10日の新聞のテレビ番組欄はラジオ番組欄に比べ小さかった。テレビの普及率がまだ低い時代だったので、ラジオが主流だった。
 
 この当時の大阪のテレビはNHKが総合と教育の2つ、民放は朝日OTV=6チャンネル、毎日テレビ=4チャンネル、関西テレビ=8チャンネル、読売テレビ=10チャンネルの合わせて6つのチャンネルを選ぶことができた。
放送時間は朝6時過ぎから夜は11時過ぎ、遅くとも日付が変わるまでにはその日の放送は終了した。

また、放送番組の無い時間帯もあって、昼過ぎぐらいから夕方にかけて「テストパターン」という画像が映し出されるだけの時間帯があった。
 
 
 番組欄の拡大ページ
 当時よく見ていた番組で、アメリカの一般家庭の家族を主人公にしたドラマで「パパは何でも知っている」というのがあった。月曜日の10チャンネル夜8時半からの30分番組だった。
 
「パパは何でも知っている」は 中年夫婦と3人の子供たちがおりなすホームドラマで、アメリカの一般家庭の生活様式を描いた、ほのぼのとしたドラマでした。日本では昭和33年8月から39年3月まで長きにわたって放送されていて、我が家でもテレビを買った当初から家族そろって見ていました。
子供心に『アメリカではこんな風なんだ・・・』と思って見ていました。
因みにこのドラマで長女ベティ役を演じた「エリノア・ドナヒュー」さんは1937年(昭和12)4月生まれで85歳になられたそうです。

当時のテレビ番組はアメリカからいろんなドラマが入ってきて、ホームドラマだけでなく西部劇も一大ブームを巻き起こした。
   
名犬ラッシー   パパ大好き
   
スーパーマン  ビーバーちゃん
   
ローハイド  ララミー牧場 
 
 
 毎週金曜日の夜8時からプロレス中継があった。4月3日は芳の里対ミスター・アトミックの試合
   
 芳の里は元大相撲前頭の力士出身レスラー。ミスター・アトミックは覆面の悪役レスラーで、覆面の中に凶器を隠し持って日本人レスラーを攻める反則行為をするが、最後は負けそうになって覆面を剥がされる場面もあった。
 昭和30年代前半の世相
 
 昭和30年3月28日の新聞記事に、当時オランダ領ニューギニアから4人の元日本兵が帰還するという記事が載った。こうした残留日本兵の帰還はその後、昭和35年(1960)にグアム島から伊藤正さん、皆川文蔵さんの二人の日本兵が帰ってきたニュース。さらに昭和47年(1972)同じグアム島から横井庄一さん、そのあと昭和49年(1974)にはフィリピン・ルバング島からの小野田寛郎さんが帰国しましたが、まだ昭和30年当時は一般家庭にテレビもなく、マスコミの取材陣が大挙して押し寄せ、追い掛け回すような現象が起きることもなかった。
おそらく帰国後は平穏な生活を送られたことだろう。

戦後から10年、この当時はまだ多くの日本兵が終戦を知らずに、あるいは戦争が終わったことを知っていても帰国する手段もなく、かの地の土となった兵士がいたことだろう。

その後、高度経済成長の中で、このように置き去りにされた残留日本兵や残留軍属の存在は忘れ去られ、送り出した側の責任を追及されることもなく日本は経済大国へと突き進んでいった。
 
 当時の路線バスは運転手と車掌が乗務員となって運行していました。現在は車掌の存在はなく、運転手のみで「ワンマンカー」という運行形態ですが、この当時は若い女性が車掌を務める「バスガール」という存在が一般的な運行形態でした。

昭和32年10月の新聞記事では、ある乗客の一人が、若い見習の車掌(研修生)にベテランの指導員(「お師匠さん」と呼ばれる)による指導の仕方が、あまりにも厳しすぎるのではないか、という意見を新聞の投書欄に投稿したもので、バスは都営バスのことをさしています。今日でいうところのパワハラ問題を提起したものです。

これに対し都営バス側は、新人の研修生と、その指導に当たるベテラン車掌との関係を詳しく説明して、この投稿者の疑問に答えています。
   
 この新聞記事が出た同じ月にコロムビア・ローズが唄う「東京のバスガール」という歌謡曲がレコード発売されヒットします。のちに映画化もされ大ヒット。コロムビア・ローズさんにとってこの歌は彼女の代表曲となります。

ただし、レコード会社(コロムビア・レコード)は、この「東京のバスガール」という歌は路線バスではなく「はとバス」のガイドさんをテーマとしたものだということですが、歌詞の中には路線バスを連想させる内容が多くある。
 
 ダイハツ・ミゼット
   
 昭和32年に大阪に本社を置く自動車メーカー「ダイハツ」が軽三輪車「ミゼット」を発売して一躍脚光を浴び、のちにテレビのコマーシャルでも話題になります。
この最初に出たミゼットは排気量249CCでしたが、この時代の軽自動車の規格は排気量360CC以下というもので、各社が軽自動車の生産に力を入れ始めます。

軽自動車免許の存在
この時代、自動車運転免許に「軽自動車免許」がありました。満16歳で取得できる免許で、高校生の頃この免許を取得して、休みの日に家業を手伝って運転していた同級生もいました。

当時は中学を卒業して15歳で社会に出て働く人もいて、仕事の都合で集金や配達に車を使う必要から、16歳で免許が取れるという時代背景がありました。
そのご昭和43年(1968)に軽自動車免許は廃止となります。

上記左の鈴木自動車のスズライトは昭和30年(1955)発売。4人乗りで38万5千円という価格でした。

上記右の「コニー」は愛知機械工業から発売された軽三輪自動車。昭和34年掲載の広告記事
 
 
 自転車の広告記事
松下電器産業(現パナソニック)のカスタムスポーツ車と当時東京に本社を置いていた且R口自転車工場のスポーツ車。
値段から見れば現在のママチャリの値段とあまり変わらない。
 
 
 移民と密航

昭和30年3月4日の新聞には「手こずる密航の実態」という見出しの記事。
昭和32年9月29日の新聞には「南米移民に明るい見通し」という見出しの記事が掲載されています。

この時代は役所への手続きや許可なく国外へ出て、余所の国へ行って一旗揚げようとする人がいました。貨物船に隠れて乗り込み、そのまま外国へ着くと上陸して不法滞在者として生きていく。そこには外国へ行くことに夢を抱いていた時代がありました。
日本の将来に期待を持てない人が多くいたことを物語っています。何の計画性もなく金もなく『行ったら行ったで何とかなる』という無謀な浅い考えで行った人も多かったようです。

また、国によって密入国者や不法滞在者に対しての処罰や対応はそれぞれ違っていて、おおむね甘い対応が幸いしたケースもあったようです。
密入国や不法滞在が発覚しても、咎められたり強制送還されることなく、そのまま居続けることができる国もあったようです。こうして密航を企てその国で仕事を得て、ひと財産作って、自分を見下した連中を見返してやろうという気持ちで行った人も多かったようです。それほどまでに当時の日本は貧しかったのです。

これとは逆に、島国の弱点として沿岸警備の手薄なこの時代、外国からの密入国も多かった。特に隣国からの密入国は多く、当時は言葉の障害もなく、日本国内にいる親戚や知人を頼って来る密航者は、日本での生活に困ることがなく安易に住み着くことができたようです。
現在の「特別永住許可」といった在留資格の法的制度は10年後の昭和40年(1965)になって作られます。この間に多くの密入国者が日本に定住したと思われます。

また、合法的に外国へ行って仕事を求めていく「移民」は、古く明治時代から活発でした。特に北米や南米への移民は毎年それ専用の船、移民船が就航して多くの日本人移民を送り出しました。
それらの移民事業は戦前から国を挙げて奨励した時期もあったが、敗戦を機に日本人の受け入れが制限されました。
上の記事は、戦後10年経ってようやく日本人移民の受け入れが緩和されたことの記事です。
昭和27年の「サンフランシスコ講和条約」によって日本が再び国際社会へ復帰することができた結果でもあります。
   
 昭和33年(1958)はブラジル移住50年という区切りの年で、記念切手も発行されています。
最初のブラジル移住は明治41年(1908)だったということです。
広大な大地に憧れて多くの日本人が故郷をあとにした時代でした。

昭和35年には「ハワイ官約移住75年」の記念切手が発行されていますので、ハワイへの正式な契約に基づいて移住がはじまったのは明治18年のことです。
 親探し運動
 
 昭和31年に第1回目がはじまり、昭和33年4回目となる「この子たちの親を探そう」というキャンペーンが新聞社主催で行われました。

空襲で家を焼かれ逃げ惑う途中に親とはぐれた子供、父親が戦地から復員してくるまでに母親が亡くなって孤児となった子供、戦後の混乱期、育てていく経済力がなく親に捨てられた子供。様々な事情で孤児となり、全国各地の施設に収容され、そこで多くの子供が育っていました。

生まれ育った街の場所も、親の名前も自分の本当の氏名も、生年月日も知らない子供たちがほとんどで、本人のかすかな記憶と限られた情報を基に「親探し運動」が続けられてきました。

また、物心つくまでに両親と死に別れ、親戚に預けられたものの厄介者扱いされ、親戚中たらいまわしにされた挙句、施設へ連れてこられた子供もいます。こうした早くに親と死に別れた子供は、厚生省が音頭をとって「里親探し」を全国いっせいに繰り広げられていました。
このキャンペーンで取り上げられた子供の数は3500人を超えたとされています。

「もはや戦後ではない」と経済白書(昭和31年度版)で発表された裏で、このような苦難を背負って生きていた多くの子供たちがいたことも現実です。