時の流れの中で・・・歴史の中の勝部

@ 『伊勢講勘定帳』に見る勝部村庶民生活誌


伊勢講とは・・・

伊勢神宮を信仰する者が集まり、結び合った寄り合い。伊勢神宮に対する信仰は古く、講は室町時代初頭に認められるが、江戸時代になって全国的に普及する。

講は伊勢参宮の実現だけでなく、伊勢信仰者の日常的な集まりの場となり、その運営資金は講の参加者の頭割りでの出費が主で、また、講の財産として伊勢講田(神明講田)を保有し、その田から得た収益を充てる方法もあった。

主に村単位集落単位でメンバーが構成され「講中」と呼んだ。

年に一度講中が集まり、くじ引きで代表者を選び代参する形式が一般的であった。

参詣は2月、3月の農閑期に行われた。
出発に際し、講中が集まり”デタチ”の祝いをし、帰村のときは村境まで出迎えに行き”サカムカエ”を行うというふうに儀式が重んじられた。

庶民、特に土地に縛られた百姓にとって一生に一度あるかどうかの旅行のチャンスであった。

勝部村における伊勢講の記録

現存する勝部の伊勢講の記録は年代が判読できるものは明治2年にまで遡る。それ以前のものも残っているのかも知れないが、紙が劣化して時代が不明のものもある。

伊勢講の記録は縦32センチ横24センチの和紙を縦に二つ折りしたものに毛筆で書かれ、紙の枚数にして5枚から8枚、縦向き上部に穴が二つ開けられ、紙縒り(こより)または紅白の水引きで綴じられたものである。表紙には『明治弐年 御伊勢講勘定帳 巳正月』と書かれている。文字通り講の収支報告書である。

すべての勘定帳には年代と干支が記載され、中には正月十一日と書かれたものも多くあり、講の集まりが毎年一月十一日に召集されていたことが判る。

この勘定帳は明治30年代にその名を『皇祖講』と改められ、大正、昭和と引き継がれ、戦後の昭和35年でその幕を閉じることになる。

1869年から1960年まで90年余りに渡る記録の中から、当時の勝部の村人たちの生活の一端を覗き見てみようと試みた。

2006年2月20日


「週刊ビジュアル江戸三百藩」(ハーパーコリンズ・ジャパン)13号「江戸くらし事典」(お伊勢参り)の記事に所蔵の「伊勢講勘定帳」が掲載されました。(2015年12月29日発売)
天保六年(1835年)二月十六日生れの曾祖父佐兵衛が残し、祖父、父、そして私へと4世代にわたり引き継いできた勝部の伊勢講の資料が紙の媒体で公開されることになりました。
ごく小さな記事ですが・・・

2015年12月31日 追加して更新


勘定帳の内容・・

書かれてある内容は食材の一覧と数量。講に参加した人の名前だけである。
判別できる範囲でみると、ごまめ、こんにゃく、とうふ、かずのこ、大根、牛蒡、ずいき、はつ、しょう油・・・などとある。

いまではほとんど使われなくなった「はつ」という言葉も、当時は普通に使われていたことが判る。「はつ」とは鮪(マグロ)のことで、牧村史陽編纂の『大阪ことば事典』にも、江戸時代から庶民はマグロを常食としていて、十返舎一九の『東海道中膝栗毛』の記述内容に触れながら、マグロが決して珍しい食べ物でも、贅沢な食材でもなかったことが述べられている。

この「はつ」という言葉は戦後になり殆ど使われなくなったが、1973年〜74年にかけて放送された茂木草介脚本で戦前戦中の大阪船場を舞台にしたNHKドラマ「けったいな人びと」の中にもこの「はつ」というセリフが登場する。

戦前まで大阪で日常的に使われていたことが伺える。

また、「ふし」と書かれているものは筍のことであろう。
このような食材の一覧は、講で寄り合った講中同士、会食をして親睦を深めることと、伊勢参宮の代参者を決める話し合い、あるいは抽選を行うための会食に使う食材を買い揃えたもので、それらに掛かった費用の会計報告である。

参加者の顔ぶれ・・
この年の参加者は全部で10人。名前の最後の人がこの年の當屋(抽選に当たった人)の庄三郎という人である。

この当時勝部の人たちにはまだ名字というものがなかった。あるいは名字を持っていても公に使うことが出来なかったのかも知れない。庄屋や村役の中には名字を名乗ることを許された一部の特権階級も存在したことは、記録にも残っている。
特に江戸末期になると財政に窮した藩や旗本家は領内の裕福な百姓から借金するために、「名字帯刀御免」=(名字を名乗ることを許し刀を持つことを許可する)を乱発した。
これにより、勝部村の中に名字を持っていた百姓が複数人いたことは間違いない。

この年の当選者である庄三郎という人はのちに「森田姓」を名乗る人物である。

また、金額なども記載されているようだが判読が困難である。
ただ、当時農閑期と言えども10日以上も家を空け「お伊勢参り」をすることは、それなりに生活にゆとりのある裕福な家の者でしか出来なかっただろう。

そういう意味でも「講中」は村の富裕層の集まりでもあったと言える。

1868 1869 1870 1871 1872 1873 1874 1875 1876 1877 1878 1879
明治元 明治2 明治3 明治4 明治5 明治6 明治7 明治8 明治9 明治10 明治11 明治12

明治2年という時代・・
この明治2年という年は、まだ政情も不安定で、この年の5月に函館の五稜郭が陥落して戊辰戦争が終結することになります。さらに、9月には兵部大輔大村益次郎が京都木屋町で襲われ、その2か月後に亡くなります。
まだ鉄道もなく、伊勢までの道程を約5日掛けて歩いて参詣した時代です。

伊勢までの道程
同じ北摂の牧落村(現箕面市牧落)の記録によれば、2月26日早朝に出立、初日の宿は大津、次に石部、津、小俣と宿泊して5日目の午前8時ごろには伊勢入りしたとありますので、勝部の代参者もほぼ同じような道中を辿ったものと思われます。

勝部から大津まで50数キロの道程、初日に大津までは無理としても、京都までは歩けただろう。
おそらく初日は朝早く暗いうちから出発したのだろう。

ただ、2年前の1867年(慶応3)には「お陰参り」「抜け参り」という集団での伊勢への参宮が「ええじゃないか」の熱狂に発展し、当時の豊中や北摂地域にも広がりを見せ、騒然とした世の中であったと言われている。

石部は東海道五十三次の石部宿で、そののち2004年に甲西町と合併して現在は滋賀県湖南市になっている。小俣町は伊勢参宮の最後の宿場町だった。

牧落村の代参者たちは参宮を果たした後、翌日三月二日朝出立、帰路は松阪、雲津、坂下にそれぞれ一泊し、五日朝に鈴鹿峠を越え同日夜山崎に一泊、翌六日の早朝に帰村したとあります。

一般的に大阪から伊勢参りをする道筋は、玉造から枚岡へ「くらがり峠」を越えて奈良、橿原を通る道が有名ですが、これは大阪市内の淀川左岸に住む人々の伊勢参りの道で、北摂や淀川右岸に居住する人々は西国街道を京、大津に向かって歩いたのです。


苗字について・・
この翌年、明治3年に新政府は「平民苗字許可令」を布告して、平民の苗字使用が許されましたが、当時の国民は政府を信用していなかったため、苗字を名乗ることで余分に課税されるのではないかと警戒し、苗字を名乗る者は少なかったようです。

さらに、明治8年には「平民苗字必称義務令」という太政官布告を出し、国民は全て苗字を名乗ることが義務付けられました。

この「平民苗字必称義務令」は新政府による中央集権化を進める上で不可欠な「徴税」、そして富国強兵を目指した「徴兵」などを目的とした「戸籍法」の整備とともに押し進められました。
百姓や町人の身分である庶民は、一般的に名字を持たなかったというのが従来の通念であったが、近年の研究では庶民の大多数が名字を持っていて、ただ、公に使うことが許されなかっただけで、村の中や集落の内輪ではお互いがそれぞれの名字を認識して生活していたことが明らかになってる。

明治になっていきなり名字を作らなければならなくなったという事実も多少あっただろうが、実情は水飲み百姓にも名字を持って生活していた者がいたことが明らかになっている。


明治4年の勘定帳には『未正月十一日』と日付も記されています。當(当選)となった人の名も。

それにしても立派な筆さばきである。日頃から文字を書き慣れていることが伺えます。
特に表紙の題字や連名の人名には文字に力強さを感じます。
裏の文字が透けて見えるような薄い紙質(もちろん和紙です)に、しかも罫線もない白紙の紙に筆で文字を書くには日々書き馴れていなければできないことです。

江戸時代中期より、町人や富裕な農民の子弟は寺子屋で読み書き算盤を習うことが常態となっていたようです。勝部の土地柄も大坂の近郊農家として、収穫した作物を販売したり、都市の中心地へ出て行って商家へ奉公するにしても、読み書き算盤は必修であったろう。

そういう意味でも、都市近郊農村では農民といえども、その識字率の高いことが証明される一つの例です。

この翌年(明治5年)に日本で最初の学校制度を定めた教育法令である「学制」が公布され、そのご国家として義務教育を進めて行くことになります。

江戸時代における庶民の識字率と教育制度

勘定帳に記載されている人物はこの当時50〜60歳前後の年齢層で、1820年代前後に産まれた人たちでした。時代は徳川幕府十一代将軍家斉の治世下でした。

1820年前後の時代背景として特筆する事柄は、上総国山辺郡(千葉県)の商人伊能忠敬は幕府の許可を得て日本全国を測量。1816年測量が終了した2年後の1818年に73歳で世を去ります。
そのご1821年、彼の弟子が「大日本沿海実測全図」を完成させ幕府に提出します。

ドイツ人医師で博物学者のシーボルトがこの地図の写しを取得し、国外へ持ち出そうとしてこれが発覚。シーボルトは国外追放処分となります。(シーボルト事件=1828年)
「勘定帳」に名を連ねている人物は、凡そこの時代に勝部の村で生まれ育っています。

日本は江戸開闢以来260年の天下泰平を享受した世界でもまれにみる国でした。そして、独自の文化が花開いて、浮世絵など西洋にも少なからず影響を与えることになります。
この時代は武士階級なら100%文字の読み書きは可能で、一般庶民でも都市部では殆どの人が読み書きができました。

1853年アメリカから黒船を率いて日本にやってきたペリー提督は、自身の日記「日本遠征記」に「日本は文章の読み書きが普遍化し、見聞を得ることに熱心だ」。また、「田舎にまで本屋が存在していることと、日本人が読書を好むことに驚いた」と書き残しています。

トロイ遺跡の発掘で知られるドイツの考古学者シュリーマンは幕末の1865年(慶応元年)に日本を訪問していますが、この時の日本の印象を自分の著書に書き残しています。
「日本の教育はヨーロッパの文明国家の水準以上で実施されている。中国を含む他のアジアの国々の場合、女子が無知のまま放置されているのに反し、日本では女子と男子がみな仮名と漢字で読み書きができる」と。

この時代、国家としての教育制度は出来ていなかったが、殆どの庶民は男女を問わず「寺子屋」で学ぶ機会を得ていました。

一方ヨーロッパでは
英国の就学率(1837年頃)20〜25%
フランスの就学率(1793年頃)2%
という統計学上の数値が出ています。

ヴィクトリア朝時代の大英帝国は厳格な階級社会で、ロンドンの労働者階級の庶民の中で読み書きができるのは10%に満たなかったといわれています。
それに比べ、日本の江戸時代の就学率(1850年頃)85%と推測されています。
いかに当時の日本の就学率や識字率が高かったかが伺えます。

この時代の「寺子屋」は公の制度ではなく、庶民の熱意で運営された私設の教育機関で、義務的な要素は全くなかったが、庶民とその子供たちは「読み書き」を覚えることが、生活していく上でいかに自分自身に有益であるかを理解していました。

さらに、「読み書き」が出来ることが「読書」を通じて楽しみを得ること、自ら創作してそれを収入に繋げる生き方も可能だったことを理解していたと言えます。
読み書きのできる庶民は、川柳、狂歌、回文など趣味としての言葉遊びから、戯作、滑稽本、浄瑠璃本、浮世草子など出版文化も発展しました。


明治5年申の勘定帳には、金額の記述が読み取れます。

七貫五百十八文という金額が幾らぐらいなのかは、当時の物価や貨幣価値を知らねば判断が出来ないが、少なくともこの時点ではまだ江戸時代の通貨概念が生きていたことになる。

と言うのも、この前年明治4年5月には「新貨幣条例」が布告され、それまでの両、分、朱、文の単位から、円、銭、厘という新しい貨幣制度に切り替えられたのである。ただ、東京の新政府が出した布告が、日本国中隅々まで行き渡るには相当な時間が必要となったことは予想できる。

ここに記載されている七貫五百十八文は、当時百貫文が15両という相場だったとして、一両一分くらいになるのだろうか。そして、当時の一両の金の値打ちであるが、幕末は激しいインフレと米価の高騰で、江戸中期に比べ相当その価値はかなり下がっていた。

幕末以前では一両の金で米150キロ買えたのが、文久元年(1861)には60キロ、さらに慶応三年(1867)には15キロと、凄まじいインフレが起こっていた。
従って、今の貨幣価値に直すと1万5千円程度だろうか。このあたりは専門家ではないので確かなことは言えない。



明治七年戌、この年になってようやく講中の名前に苗字が記載された。
森田、樋上といった今も勝部に残る苗字もあるが、石原、上野、山本といった苗字はその後断絶したのか今は存在しない。

元号が明治と改められて7年、しかし新政府が次々に発令する新しい制度に国民の多くは戸惑いを感じていた。

特に明治6年1月に発令された「徴兵令」、秩禄処分に向けた家禄制度の改正などが、それまでの特権階級にあった士族の不満を高める結果となり、この年の7月江藤新平らによる「佐賀の乱」が起きた。

乱は政府軍の強硬な対応により鎮圧されたものの、その後も各地で不平士族による叛乱が勃発した。明治9年3月の「廃刀令」のあと、その10月には熊本で「神風連の乱」、福岡で「秋月の乱」、山口で「萩の乱」、さらに、翌10年の「西南戦争」と世の中は騒然とした空気に包まれていた。

徳川幕府が倒れて10年、国内にはいまだに旧藩時代の意識が色濃く残っていて、このとき明治新政府はまだ安定した政権とは言えず、言わば綱渡りのような国政運営だったのです。





時代はずうっと下って明治22年(丑)。この年の伊勢講勘定帳にご先祖の名前が登場します。

辻村佐兵衛とその弟兵吉の名前が記されている。この佐兵衛さんは天保6年(1835)生まれの四代目の佐兵衛さんで、私の曽祖父に当たる人物です。

ここからは私の先祖が明治と言う時代をどのように生きてきたかを述べてみたいと思う。
勝部には、苗字のほかに“通称”で呼ばれる、いわゆる“屋号”というものが存在していた。いまもその“屋号”が日常使われているかどうか知らないが、私の子供の頃は、この“屋号”で、その家を指すことが日常的でした。

それは日本全国古い土地柄では共通のことで、長い年月のうちに同族、同姓での婚姻、養子縁組が繰り返され、村の中での同姓が数多くなり、区別化の必要性から生まれた“生活の知恵”ともいえるものであったと思われます。

またそれは、江戸時代の租税徴収(年貢)制度が、明治期を通じ昭和の戦前まで続いた旧民法での「戸主」「家長」制度と、それに基づく「家督相続」と納税制度の名残であったと思われます。

私の家の屋号は「佐兵衛(さへい)」です。子供の頃、父母から聞かされていました。20数年前、まだ父が存命中、家の過去帖を紐解き、そこに記載された人物を享年から逆算して生まれた年を導き出し、年表化し、系譜を作成する機会がありました。

過去帖の記載享年は“数え年”であることも計算に入れて作成しました。

そこで判明したことは、我が家の過去帖には4人の“佐兵衛さん”が存在したことです。
元禄末期(1714年)に生まれた最初の“佐兵衛さん”から、明治40年に亡くなった“佐兵衛さん”まで四人の佐兵衛さんが記載されていることが判明しました。

それぞれの佐兵衛さんは、生れながらにして佐兵衛と名付けられたのではなく、一人ひとり幼名があり、成人してのち、あるいは家督を相続して佐兵衛と名乗ったのです。
おおよそ200年もの間四世代にわたり「佐兵衛」という名を名乗り続けてきた記録が残っています。

これが我が家が通称屋号として「佐兵衛さん」と呼ばれていた由縁である。ただ、私自身子供の頃を通じてこのような呼ばれ方をした記憶はありません。

そして最後の佐兵衛さんの次が私の祖父伊三郎である。伊三郎は最後の佐兵衛さんの7番目の子(末子)で四男、明治7年の生まれです。

彼には夭逝した兄弟を除くと3人の兄たちがいました。そして彼の父佐兵衛の家督は長兄佐太郎が相続することになっており、あと二人の兄、留吉と卯三郎は早くに他家へ養子に出ていました。

ところが家督を相続すべき長兄佐太郎が明治21年、29歳の若さで病没します。そこで、急遽末子の伊三郎のところに家督が回ってきたといういきさつがあります。

明治新政府による「徴兵令」と庶民の抵抗

ここで気になるのが、養子に出た二人の兄、留吉と卯三郎の存在です。佐兵衛さんはなぜ二人の息子を養子に出さなければならなかったのだろうか。

留吉は池田のお寺の寡婦稲津家に、卯三郎は岡町の西村家に。その時期は定かではないが、おそらく長兄佐太郎が病没する明治21年以前に養子に出たことは間違いないでしょう。
このことは当時の日本という国家が、近代国家への仲間入りと富国強兵政策への大転換期にあったことと密接な関係があると考えます。

新政府は新しい国家づくりに向け「徴兵制度」を設けます。それまで武士階級だけに与えられていた”武力”を広く一般市民階級にも拡大して国家としての軍事力を高める方針に切り替えたのです。

しかし、百姓や町人にしてみれば驚愕の迷惑この上ない制度でありました。
それまで田畑を耕していればよかったのに、いきなり兵隊にされて武器を持たされることに大いなる戸惑いがおきました。さらに、いざ戦争が勃発すれば兵士として戦場に送られ命を落とすこともありうる。

そうした状況を考えると当然ながら兵隊にされることに拒否感が生まれる。そして兵隊に取られることに対して、それから逃れる方法はないものかと模索する者もあらわれました。
特に百姓にとって大事な働き手である年頃の息子を兵隊にとられることは身を切られるほどの辛いものがある。どうにかして兵隊にとられないための方法を探すことになる。

結論から先に言えば、留吉、卯三郎の二人の兄弟の養子は、いわゆる婿養子(婚姻関係)ではなく、養子縁組によるもの。家督相続者のいない家への養子。子供のいない家への養子。当時庶民の間で頻繁に行われた「徴兵逃れのための養子縁組」だったことが判りました。

佐兵衛さんは二男三男を他家に養子に出して、兵隊に取られないように計ったのです。

明治6年に日本が国家として初めて布告した『徴兵令』には以下のような「免役規定」が定められています。

一、       体格不良者

二、       陸海軍学校生徒

三、       官公吏、官公立専門学校生徒及び卒業生、洋行修業生等

四、       戸主及びその相続者等

@       一家の主人たるもの

A       嗣子ならびに承祖の孫

B       独子独孫

C       養子

D       父兄に代わり家を治むるもの

E       徴兵在役中の兄弟たる者

五、       代人料二百七十円上納者

六、       犯罪人

一、の「体格不良ノ者」、兵隊として役に立たないという意味で当然だが、身長にも規定が定められており、身長五尺1寸(154.5センチ)というのが一応の基準となっていた。

二、と三は、新しい明治国家の政治、文化の担い手です。それとその後継者と言う意味です。

四、については、当時税金を収める単位が「家」であったため、明治政府の富国強兵政策からすれば、税金を収め、国を富ませる富国の担い手を兵役から免除する、という方針によるものであった。従って徴兵の対象は必然的に二男、三男に向けられることとなった。

当時、農業国家であった日本の庶民にとって、かけがえのない若い働き手を兵隊に取られることは、その家にとっては大きな損失であり、いざ戦争が始まって戦地に赴き、命を落としたり、負傷したりすることを考えると、親の気持ちとしては「何がなんでも息子を兵隊に取られたくない。」という切実な思いがあったのだろう。

それは、維新から十数年、この頃の日本がまだ、国民の隅々にまでナショナリズムが浸透していたとは言えない時代でもあったということなのだろう。国民一人一人の「国家」に対する帰属意識が希薄であったということと、そうした教育がまだ十分行きわたっていない時代でもあった。

当時、満17歳から40歳の男子は総て兵籍に登録された。その中から上記の免役規定外の者を徴兵していくのである。代人料二百七十円は現在の貨幣価値に換算すると、おおよそ300万円ほどになる。従って庶民にとっては「養子」という選択肢しか残っていなかったのであろう。


子供のいない夫婦、夫に先立たれた寡婦、女性ばかりの家族。このような養子先を探しては、年頃の男の子を持つ親に養子縁組を斡旋する商売も現れた。



改正 徴兵免否要録

このような風潮に対し、明治政府は12年と16年に徴兵令改正を公布。

12年の改正では、跡継ぎは全て免除するので はなく、実の親なり、養子先の親が満50歳未満の場合は免除しない。という年齢限を設けた。

さらに16年の改正では、その親の年齢を満60歳に引き上げた。それで、こんどは60歳以上 の高齢者のところへの養子口を探す、ということになる。

このようにして、時の政府の方針に相反して国民感情の中には厭戦気分が満ちていたのである。

しかし、これもその後明治22年の徴兵令改正により、免除の特典が廃止され、「徴兵養子」などの合法的徴兵のがれの道は閉ざされた。そして、この徴兵令は昭和20年の日本の敗戦まで、若干の修正が加えられるものの、国民皆兵、国家総動員へとエスカレートしていくのである。

上の資料は当時ベストセラーとなっていた『徴兵免否要録』、別名「徴兵のがれ早分かり」という明治14年改正版の小冊子である。徴兵検査を間近ひかえた若者やその家族が、真っ先に買って読んだとされている。特に流行した「徴兵養子」は、跡継ぎのいない家庭や子供のいない未亡人のところへ百円から二百円を納めて、養子縁組をむすんだ。また、こうした養子縁組を斡旋する専門の業者も出現した。

こうした抜け道は全国的に広がり、極端な例として明治14年の長崎市では、この年の徴兵該当者がゼロであった。これはこの当時の庶民の精一杯の抵抗であった。それは、「徴兵制度」が施行されたものの、当時の庶民の意識の中には「国家」という概念がなく、「国家」に対する忠誠心も成熟しておらず、「兵士となってお国のために戦う」という意識も醸成されていなかった時代だった。

幕末期の農兵の存在

天保8年(1837年)のモリソン号事件をきっかけに、伊豆韮山の代官江川太郎左衛門英龍は日本沿岸の海防の重要性を意識し、幕府に海岸の防備を訴え、それにあたる人員として農兵の徴収を建白した。
この建白は却下されたが、その後幕府による「文久の改革(1862年)」で農民を兵賦として徴集する時代がやってくる。

元治元年(1864年)と慶応2年(1866年)の二度にわたる「長州征討」に勝部や原田の農民がかり出されている。主に農家の二三男で「厄介人」とよばれる存在の若者であった。
慶応四年(1868年)の鳥羽伏見の戦にも豊中の旗本領内や一橋領内の若者が農兵としてかり出されている。

十分な訓練も受けずに戦の最前線に立たされ、命を落とした者も多くいたであろう。
食料や武器弾薬などの搬送に従事する兵賦人足であっても、戦闘に巻き込まれることは当然であった。
また傷ついても満足な治療や補償も受けられないまま、隠れるようにして帰村した者もいただろう。
負け戦ならばなおさらである。

明治新政府による「徴兵令」によって兵籍に登録されるのは17歳。佐兵衛さんの二三男は明治10年の西南戦争の頃、13〜14歳になっていて、農家にとっては貴重な働き手であった。
その後佐兵衛さんの息子たちは、次男留吉は戸籍を移動しただけで、実際の生活は勝部の村で住み続け妻帯し、ここで生涯を終えます。三男卯三郎は養子先の岡町に生活の場を移し、西村姓で生涯を終えることになります。

一方、四男伊三郎(祖父)は、長兄佐太郎の早世により、末っ子ながら家督を継ぐことになる。しかし、徴兵免除の特典が廃止されたあとに成人し、のちに徴兵され日清戦争に従軍することになります。





四代目佐兵衛さん当時の物で、百姓の身分には似つかわしくない品物が2点わが家に残っています。上の写真の刀(脇差)一振りと蒔絵の文箱(写真下)です。

刀の方は大刀は戦時中に供出されたようで、小刀だけが残っている。それもかなり痛んでいて切っ先も欠け、柄の紐も朽ち果て貝細工の持ち手の部分も半分程が剥がれている。

文箱は金具に付いていたはずの組紐もすでに朽ち果ててしまっている。
この2つの品物は、私の推測するところでは大名貸しの借金のカタ(担保物件)として預かったものであろうと思うのです。当時佐兵衛さんが耕作していた農地は麻田藩の領地でありました。

専門家によって書かれた歴史書によると勝部の土地は江戸時代を通じて「入組み支配」と呼ばれる複雑な細切れ状態の領地支配となっていて、田圃一枚一枚、その畝ごとに支配者が異なるという複雑な管理状態にありました。

幕末になると各藩の財政難は一層逼迫の度合いが高まり、麻田藩も1万石の小名、あちこちから借金をしながら藩の経営を遣り繰りしていたが、勝部の農家からも借りなければならないほど、その経営状態は悪化していたようです。

百姓にとっては何の利用価値も有り難味もない刀や文箱を、その借金のカタ(担保物件)として預けられたものではないだろうかと推測するのであります。

明治2年の版籍奉還、さらに4年の「廃藩置県」のクーデターによって、麻田藩は麻田県になり,のち大阪府に併合吸収され事実上消滅する。藩の借金は新政府が肩代わりするという約束だったが事実上は踏み倒しだった。三井、住友、鴻池など一握りの豪商は時勢に乗じて莫大な利益を得たが、多くの一般債権者である百姓は泣き寝入りを余儀なくされ、没落していく者も多くいた。
一方旧藩主青木氏は爵位を与えられ、その後の明治の世の中を華族の身分で生きていく。

四代目佐兵衛さんは家督を末っ子の四男伊三郎に譲って隠居、明治40年73歳でこの世を去ることになります。