懐かしい人々・・・ -小旅行を楽しむ勝部の人たち- 
昭和40年代半ばから50年代にかけて勝部の村の人たちは活気づいていた。「大阪国際空港」の拡張や、「阪神高速道路池田線」の開通、「大阪万博」開幕など地元北摂地域の発展に伴って経済的にも躍進した時代だった。農地を空港に売却して百姓を辞めた人たちは、それで得た大金を銀行などに預けて、利息だけでも十分食べていけるほどのものだった。いわゆる「昭和のバブル初期」の預金金利は6.3%という、今では想像を絶する高いものだった。そして、当時のサラリーマン20歳半ばの平均的年収は70万円程度だった。農地を手放した人の中には、借家を建てたり貸倉庫を建てて、それらの賃貸収入で将来の生活の安定を図る堅実な人も多くいた。
このようなよき時代におカネと暇を持て余した中高年の人たちは、先を争ってレジャーに没頭した。

家を新築し、自家用車を持ち、子供や孫たちを大学に進学させると、あとは遊ぶことだけである。農家の人たちだけでなく一般サラリーマン家庭も、それにつられるようにしてレジャーに勤しんだ。
さらに、この時代になると集合写真もほとんどが「カラー写真」になっています。社会全体が豊かになり、人々が活気に満ちあふれる時代だったのです。

このページではそんな活気あふれる時代の懐かしい勝部の人たちの姿を紹介します。

2011年10月5日更新
 
 (写真上)昭和50年秋の「勝部婦人会」のバスツアー旅行。
上の写真を拡大して見ることが出来ます。
 
 (写真上)昭和47年1月の「勝部婦人会」の旅行は九州方面へ
上の写真を拡大して見ることが出来ます。
 
 
 
 
 
 (写真上3枚)昭和52年3月には九州長崎.熊本方面へ
 
(写真上)消防団の慰安旅行スナップ写真。昭和30年代半ば頃
 
 
上の写真を拡大して見ることが出来ます。 
 
 
 
 
 
 このホームページには戦前の写真も含め多くの勝部の人たちが載っています。その中でも特に数多くの写真に載っている人物が一人、村では町会の役員をはじめ「老人会」などさまざまな組織で世話役として活躍されてきた「森田政吉さん」の存在があります。森田政吉さんは明治33年(1900年)のお生まれ、勝部で三代続いた大工の棟梁として、平成4年(1992年)に92歳の生涯を閉じられるまで勝部の村の長老ともいうべき存在でした。また、多彩な趣味をお持ちで、木彫製作においては雅号「森田秀峰」としてその作品を各方面へ寄贈され、平成3年7月には「豊中老人福祉センター」から感謝状を贈られています。下の動画は、その「感謝状」を授与された時の記念すべきビデオ映像です。
 
 また、森田政吉さんは自らの生い立ちからの想い出について書かれたものを残されています。そこには明治末年の勝部周辺の風景に関する記述もあり、往時を偲ぶことが出来ます。
下の資料はお孫さんの佐登美さんからご提供いただきました。
   
 
 
森田政吉さんの少年時代は勝部から岡町辺りまで一軒の住宅もなく 一面の松林だったと記述されていて、「桑摘みの娘」や「綿取りの老翁」の姿を眺めた。とありますので、当時はこの辺りでは「養蚕」や「綿花栽培」が行われていたことが解ります。政吉さんが10歳になった明治43年に「箕面有馬電気軌道」(現在の阪急電鉄)が開業します。そして開業と同時に「岡町停留場」が営業されます。開業当時は「服部停留場」の次が「岡町」その次が「石橋停留場」です。「曽根」、「豊中」、「蛍池」の駅は後の開業となります。
 
上の資料は昭和55年2月に「阪急電鉄広報課」より発行された「阪急電車駅めぐり」の付録の内容ですが、これには「服部天神」辺りから曽根の高台まで4万8千坪の土地を所有。岡町から「新免麻田」(蛍池辺り)までの約12万7千坪を所有した。とありますので、鉄道施設のための用地買収だけでなく、沿線の広大な土地を買収したことが解ります。この結果、江戸時代末期からの地主や自作農家の大半が小作人に転落することになります。勝部の土地も例外ではなく、その多くの土地が小林一三氏の親族の所有となり、戦後の「農地改革(農地解放)」まで続くことになります。 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 バスツアーや旅行以外にもさまざまな行事に積極的に参加した。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 「岡町DMストア」
昭和40年代半ばになって地元に「岡町DMストア」という市場が出来た。岡町駅から勝部に向かって西へ、通称「唐来の坂(からこのさか)」を降り切った、以前田圃だった場所に、個人商店の集合体の形式で開店した。それまで勝部の人たちの殆どは「岡町駅」近辺の商店街やスーパーへ日常生活に必要な物を買うのが常であった。この「唐来の坂」の上り下りは高齢者にとっては相当キツイものだった。それがこの「岡町DMストア」の出店で勝部のご婦人がたは大いに助けられた。
「岡町DMストア」の戦略は買い物10円毎に切符(シール)1枚を配布して、これを台紙に張って(たぶん100枚だったと思う)、この台紙を集めて特定の商品と交換するという顧客の「囲い込み戦略」を行った。私の母親も毎日の買い物をしたあと、せっせと台紙に切符を貼っていたことを思い出す。
1年に一度だったと思うが「台紙」何枚かで「バスツアー」の招待。という企画もあった。下の写真はこの「岡町DMストア」が企画した「バスツアー」招待の記念写真である。そこには大勢の勝部の女性たちの姿が写っている。
 
 上の写真は拡大して見ることができます。
 
 
 その後、この「岡町DMストア」はバブル後期に地上げにあって、数十軒あった店舗が櫛の歯が抜け落ちるように次々撤退し「市場」が消滅した。現在は建売住宅が立ち並んでいる。この「岡町DMストア」の消滅は、勝部の住民に「買い物難民」という新たな問題を提起することになる。
 
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