定点観測・豊中あちらこちら 
 消えゆく昭和の街並み・二本松屋敷
 岡町駅から勝部に通ずる道の途中、駅から徒歩5分ほどの所にあった「二本松の屋敷」が2022年夏無くなりました。
立派な二本の松の木と「二本松」と刻まれた石柱はこの周辺でも有名な屋敷でした。
この懐かしい街並みを思い出しながら、岡町駅西側の風景について思い出を語って見たいと思います。

2022年9月8日 更新
 
 2019年時点ではすでに人は住んでいない様子だった。表札も門柱から取り外されていた
 
 二本の松の木は脇の電柱と同じ高さに成長している
 
 元々は純和風建築として売り出されていたが、白い壁の洋風の部屋は増築したのか・・・
 
 道に面した白壁の部屋から時折ピアノの音色が聞こえてきたことも・・・
 
 私を含め勝部で生まれ育った多くの人たちは、通学に通勤にまた買い物にこの道を通りました。勝部を離れて他所で暮らした人にとっても懐かしい思いで深い道です。この道は明治43年に開通した「箕面有馬電気軌道(現阪急電車)」の岡町駅が出来てから勝部まで通じる主要な道でした。
岡町駅(開通当時は岡町停留所と呼ばれていた)に電車が開通するまでは駅の西側は何もない、一軒の家もない風景でした。
明治半ばごろに生まれた勝部の故老の記録では、勝部の集落まで桑畑や綿畑が広がり、駅の周りは松林が点在していたそうです。
 
明治45年の地図に見る岡町停留所西側一帯

「箕面有馬電気軌道」が開通した当初の地図では岡町停留所(をかまち)の西側は勝部の村まで一軒の家もなく、伊丹街道の北側に村役場(豊中村)と学校があるだけでした。
一方、駅の東側は能勢街道沿いに家並みが多く、原田神社を囲むように町屋が発展していた様子が伺えます。

上記の地図に「文」の学校を表す地図記号のあるのは当時の「克明尋常小学校」で明治40年には義務教育が6年制になっていました。そしてその隣には「豊南高等小学校」がありました。現在の克明小学校と岡町図書館のある場所です。

駅の西側にあるのはこれらの建物と駅のすぐ南西にある「岡町住宅経営株式会社」の建物があるのみでした。 
 
「岡町住宅経営株式会社」による宅地開発

「箕面有馬電気軌道」が開通すると同時に明治43年沿線の宅地開発が始まります。
鉄道会社である「箕面有馬電気軌道株式会社」は沿線の宅地開発をすることで沿線住民を増やして乗客の増大と鉄道経営の安定化を計ったのです。
まず最初に手掛けたのは池田駅北西部の「室町」です。地元の「呉服神社」 を囲む33000坪余りを宅地開発して売り出します。
続いて、箕面の桜井で55000坪。服部に13500坪と沿線を開発していきます。

そこに二年遅れて参入してきたのが「岡町住宅経営株式会社」で、上記の地図の部分74500坪を売り出しました。
明治45年のことです。

それぞれ区画ごとに坪当たりの値段が表示されています。

上の地図は売り出した当時の停留所西側一帯の地図です。停留所周辺には村役場、学校、郵便局、裁判所、警察署などがあって、当時の豊中地区周辺での行政の中心地だったことが分かります。
 
今回のテーマに取り上げた「二本松の屋敷」は黄色で囲った「い 620」の部分です。620は区画の面積で620坪ということですが、実際にはこれを幾つかに区分分けして売り出したようです。「い」というのは「いろは」で坪当たりの値段ごとに区分けしてあります。
「い」の部分は一番高くて一坪40円という値段です。
一番安い区画が「へ」の部分で一坪15円です。かなりの価格差がありました。 
 
 勝部に至る道筋にあった「唐川池」は昭和30年代に埋め立てられ宅地になります。戦後から昭和30年ごろまでこの道は街灯もなく、「追い剥ぎ」が出て、その被害にあった人もいたほど夜は物騒な所でした。
現在の「原田小学校」はこの当時「南豊島尋常小学校」の分教場でした。
 
 
 岡町住宅経営株式会社は元々原田神社境内に属していた松林2万坪を購入し造成。宅地開発と同時に和風建築の分譲住宅を売り出しました。当時の新聞に「理想郷岡町の住宅」という記事が出ています。
「二本松」の松の木もこの当時の松林の名残かも知れません。

会社の建物の写真が掲載されていますが、線路の向こうに写っている建物のようです。上記の地図の場所と一致しています。

記事の冒頭には「箕面電鉄の出来てより数年の間に北大阪の発展というものは素晴らしいものである」という書き出しで、ここ岡町の土地柄の素晴らしさを強調しています。
「風景絶佳にして空気清夾井水もまた清良なるをもって唯一の健康地である」と環境の良さも強調しています。

当時の大阪市内は工業都市として発展していて、十三・三国辺りは工場からのばい煙などで環境が悪化していたことで、比較的裕福な人たちは理想的な生活環境を求めて移り住んだようです。
 
 
大正7年の新聞記事 
「岡町住宅経営株式会社」の力の入れようが分かる記事です
 
谷田公園の隅っこにある「岡町住宅経営」の石柱 
 
 「谷田公園」は元々ため池を埋め立てたもので上の地図では「谷田池」という名の池でした
 「岡町住宅経営株式会社」の創設と竹中藤右衛門

「岡町住宅経営株式会社」は明治45年2月に創設され、広岡久右衛門、星島義一郎、平賀敏、小林一三、竹中藤右衛門らによって始めた会社です。

広岡久右衛門は大阪の豪商加島屋の9代広岡久右衛門正秋、浅子夫妻の娘亀子の婿養子となり、明治42年義父久右衛門が亡くなったあと加島銀行の頭取、大同生命の二代社長に就任します。広岡恵三が一般的な呼び名です。
ちなみに義母の浅子はNHKの朝ドラ「あさが来た」で波留さんが演じた主人公です。

平賀敏は三井銀行名古屋支店長だった頃の部下である小林一三を連れて三井銀行大阪支店長となり、「箕面有馬電気軌道(後の阪急電鉄)」設立のため三井銀行を退職した小林一三を支援をします。
小林は社長不在のまま「箕面有馬電気軌道株式会社」の専務として実質的経営者となりのちに銀行時代の先輩平賀を社長に迎えることになります。

竹中藤右衛門は第12世竹中藤五郎の二男として明治10年名古屋で生まれます。
19才で大阪商業学校に入学。明治32年22才の時父藤五郎が急死し、兄が13代藤五郎を継ぐと、彼は工事責任者として神戸で竹中藤五郎神戸支店を開設し、父が残した神戸の三井銀行小野浜倉庫の建設を引き継ぎます。
明治42年それまでの個人営業から合名会社に組織を変更し、神戸に本店を置く「竹中工務店」を設立。

明治45年「岡町住宅経営株式会社」の設立に加わり2年前の明治43年3月に開通した「箕面有馬電気軌道」沿線の宅地開発事業に参入。代表取締役として実質的な経営者となります。

大正9年、豊中駅西側(末広町1~3丁目)40000坪を宅地開発。
大正14年「岡町住宅経営株式会社」を解散。その後兄の後を引き継いで竹中工務店の社長に就任。

昭和40年88才でこの世を去りました。

竹中工務店の歴史

竹中工務店は現在大阪に本社を置く会社ですが、古くは織田信長の時代まで遡ることができます。
竹中藤兵衛正高は清州城下において織田信長の普請奉行をつとめ八百石の知行を取る織田家の重臣でした。
信長が本能寺の変で倒れ、主家の再興を待ち望みますが、政権が秀吉~家康に遷ると武門を捨て、慶長年間には名古屋に移り住み、神社仏閣の造営を主に請け負う棟梁となります。この藤兵衛正高が始祖となります。

名古屋城は尾張徳川家の居城として1612年(慶長17)に天守閣が完成しますが、明治の初め名古屋城の改修工事が行われた際、多くの古材が払い下げられその中に「竹中」と彫りこまれた古材が多数見つかり、名古屋城の造営に竹中が深くかかわったことが分かります。と2021年1月の「毎日新聞」の記事にあります。
竹中は尾張徳川家と密接な関係を築き、尾張藩のみならずその支藩や縁戚の藩の造営改築にも傘下の棟梁を派遣して経営基盤を拡大していきます。

同じ大阪市に本社を置く「金剛組」も神社仏閣を専門とする建築会社で、578年(飛鳥時代)の創業で、世界最古の企業として名を知られていますが、竹中工務店も400年以上の歴史を持つ会社です。
 
2019年3月、世界最古の企業「金剛組」が改修工事を請け負った服部西町の「忍法寺」 
 
 
 
2022年8月、すでに松の木は無くなってこの一角は工事用のテントで囲まれています 
 
工事現場の北側の道路に回って見る。突き当りが「西山邸」 
 
工事用テントの隙間から覗いてみました。600坪の広さが実感できます。 
 
昭和35年ごろにはこの620坪の区画内に16軒ほどの家が建っていました 
 
道路を挟んで西側の「西山邸」は健在です。宅地開発当時の趣が残されています。 
 
向かい側の教会も子供のころ(昭和30年ごろ)は高い生垣に囲まれた和風建築でした 
 
 昭和32年、岡町駅から帰宅途中の勝部の女の子たち。中央に松の木が写っている。
この子たちも今は全員70をとうに超えているだろう。電柱は木製だった
 
昭和30年代半ばごろの岡町駅西側 
当時から駅の西側には医院が多くありました。小児科の横田医院、小川歯科、耳鼻咽喉科の三上医院、外科の堀口医院、内科の多谷医院など一通り揃っていて、勝部に住む人たちもほぼ全ての人が診てもらった経験があるだろうと思います。
私自身も小学6年生の時、足を骨折して「堀口外科」で治してもらいました。その後も高校時代にラグビーで怪我をしたときには必ず堀口先生に診てもらいました。『また怪我したんか!』とよく言われましたが、親しみある先生でした。

先に書いた「岡町住宅経営(株)」は地図では「三上医院」の場所にあったように思います。 

駅を出ると線路伝いに店が何軒か並んでいて、一番手前に食べ物屋の店があって、寿司や丼物などの食品サンプルが陳列ケースに並んでいました。少し古びた年季の入った陳列ケースでした。
店の名前は「百千楼」だったと記憶しています。一度も中に入って食べたことはありません。

その並びの端の店が「杉本」という傘の店でした。当時傘は貴重品で家族でも一人一本しかありませんでした。布製の蝙蝠傘がほとんどで、壊れたり痛んだりすると修理に出します。
今のような500円程度で丈夫なビニール傘が買える時代ではありませんでした。傘専門で修理などで商売が成り立つ時代でした。

小川歯科の二軒隣に和菓子の「菊屋」がありました。子供のころ甘いもの好きの母親は商店街で買い物をした後、帰りにこの店に立ち寄って饅頭を買うのがルーチンになっていて、8人家族でしたが必ず10個買って、一人一個ずつで残りの2個を母と私が食べる。というのが暗黙の了解になっていました。

いろんな商店が並んでいる最後の辺りに「魚治」という寿司、仕出しの店がありました。勝部の人もこの店から出前を頼んだことがあるだろうと思います。我が家も来客があったときに食事を出前で頼んだことがあります。手拭いで鉢巻をした店のご主人の顔も覚えています。店の前を通るときプーンと酢の香りが漂ってくるときがありました。懐かしい思い出です。
 
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