地図で見る旧能勢街道−岡町周辺(その一)
岡町という土地柄が原田神社と能勢街道の存在で発展してきた歴史は今までにも多くの出版物やサイトの中で知ることが出来ます。そうした歴史的な検証は専門家や好事家に委ねることとして、このページでは私が育った昭和30年代の岡町周辺の風景を思い出しながら、あの頃を振り返り、どのような移り変わりをしてきたのかを当時(昭和30年代中ごろ)の地図を基に検証していきたいと思います。私が育ったころからすでに60年近い歳月が流れていますが、おぼろげで僅かな記憶を絞り出してみようと試みました。
あの頃とは町名の表記も現在と異なっています。

2017年5月15日更新
旧能勢街道の岡町周辺は阪急岡町駅東側の原田神社の横を通って北上、伊丹街道を横切ってさらに北上します
1997(平成9)年に移転するまで岡上の町にあった「市立豊中病院」の裏道をさらに進むと国道176号線と合流する
自分自身のあやふやな記憶と当時の地図とを突き合せしながら、あの当時の店の並びを書いてみました
岡町商店街と旧能勢街道が交差する地点には、私の子供のころからの店が健在です。お好み焼きの「やまとや」と食堂「土手嘉」の二店です。特に「土手嘉」は私の知る限りほぼ60年間は店の佇まいは変わっていないように見えます。
アーケードの天井から吊り下げられた店の看板はそのままだが、「さくら玩具店」は数年前に店を閉め、今は別の店舗に変わっています。閉店前の「さくら玩具店」の店主は私と同じ中学(豊中一中)の卒業生で同学年です。
ディスカウント・チケットを扱っている店は、50数年前は「傘屋 石崎」でした。
「さくら玩具店」の2軒先には「あたりや」という食堂がありました。私より少し年上のお姉さんが看板娘で店を切り盛りされていました。何度かこの「あたりや」で食事をしたことがあります。その後1970年代半ばごろには「ペスカ」という名に変えてイメージが一変しました。
さらにその並びには和菓子の「竹寅」、そして米穀店「飯田」と続きます。「いいだ」は現在酒類をメインにした店になっています。
すでに店を閉めて10年近くになりますがパチンコ店「岡町センター」がシャッターが降りたままになっています。昔はここに「三和銀行豊中支店」がありました。店舗面積によって業種が限られてくるのでしょうか、次に入る店が決まらないまま歳月だけが過ぎていくばかりです。
2006年10月時点では営業していた。明かりが消えたことで夜のこの通りの活気がなくなった。
文具店「谷木」はいまも健在です。小中学生のころ「谷木」へ行けば何でも揃っているということでした。今は事務用品も手広く扱っているようです。
文具店「谷木」の横の路地を入ると、突き当りに「日本生命岡町寮」があります。60年前と変わりませんがリホームはされているようです。
その向かい側には「割烹 うを浅」が立派な建物になっていました。和食の店舗とマンション経営を兼ねているようです。
昔の地図では「果物ー田中商店」や「中埜医院」のあった場所にはマンションが建ち、玄関先に「能勢街道」の道標と碑が建てられています。
さらに先へ進むと空間が広がりパチンコ屋の駐輪場があります。この場所はかつて「神戸銀行豊中支店」があった場所です。
パチンコ屋も外観が変わっていました。昔は「岡町一番」という店名でしたが・・・。向かい側には「伊勢屋」という店もありましたが今はなくなっています。
地図にある「白鹿足袋」がたあったと思われる場所に来てみましたがマンションに建て替わっていました。「白鹿足袋」の会社は現在服部本町にあるとのことです。
さらに「岡町東映」があった場所も訪ねてみましたがマンションに建て替わっていました。小学生のころ大川橋蔵の大ファンだった高校生の姉に無理やり付き合わされて、この「岡町東映」で「新吾十番勝負」を見ました。他の一本と二本立てを朝一番から映画館に入って3回も見せられました。終わって外に出ると日はとっぷりと暮れていて、お腹がすいてたまらなかったことだけが強烈に記憶に残っています。当時の高校の校則で一人で映画館へ行ってはダメだということで、無理やり私とすぐ上の姉を連れて行ったようです。
大川橋蔵主演の「新吾十番勝負」を見たのは昭和34年頃のことだったと思いますが、当時テレビが各家庭に普及し始めたころで、映画産業が斜陽化しつつある時期だったと思います。「岡町東映」も建物が古くなって、座席もところどころ壊れていたようで、客の入りも良くなかったと記憶しています。私は10歳でした。
伊丹街道の信号を渡ると「吉田石材店」がありました。ここら辺りから北へ向かうと所々昔の家並みが残っているところがあります。
「豊中松竹」があった場所へ来てみましたが、そこはマンションに建て替わっていました。この地域の映画館では比較的長く続いていたようです。
「能登田畳店」はおそらく100年以上は続いている店だと思います。我が家も昔から、この「能登田」さんに畳の入れ替え表替えなどを頼んでいたと記憶しています。豊中のこの地域ではかなり広範囲に営業活動されていたようです。先に紹介した「岡町東映」のスクリーンの前に架かっている緞帳には「能登田畳店」の文字が入っていたのを覚えています。これは推測ですが、かつての「岡町東映」はその昔芝居小屋だった時代に、桟敷席は畳敷きで、この芝居小屋の畳を「能登田畳店」が納入していた。という関係で緞帳に店名が入れられていたと思うのです。機会があれば店を訪ねて確認してみたいと思います。
昔、阪急電車の線路沿いに「豊中市民病院」があり、その北隣に映画館「ヒカリ劇場」がありました。いまは「阪急オアシス」になっています。

 市立豊中病院の隣にあった映画館「ヒカリ劇場」は主に洋画を上映していたと記憶しています。
小学生低学年だったころだと思いますが、ここでデボラ・カー、ユル・ブリンナー主演の「王様と私」を見た記憶があります。一番上の姉や母親も一緒でした。
この「ヒカリ劇場」は病院の隣だけあって、入院患者が退屈しのぎに映画を見に来ていたこともあります。病院の浴衣を着て松葉杖をついて出入りしていた患者の姿がありました。

当時は病室にテレビはなく(一般家庭でもテレビのある家は少なかった)ラジオも持ち運びができるラジオはありませんでした。入院患者は退屈だったことでしょう。
市立豊中病院は1997年(平成9年)豊中市柴原町に移転し、現在その跡地には豊中市が運営するすこやかプラザのほか、フィットネスクラブ、コンビニエンスストア、学習塾等が入っています。 1984年(昭和59年)に娘がここで産声をあげました。すでにその頃には建物も老朽化していました。