定点観測・豊中あちらこちら

地図で見る岡町駅周辺と商店街
明治43年の地図で見る豊中地域は広大な田畑の中に幾つかの集落が点在していました。その北東部地域の豊中台地から千里丘陵にかけての田畑の中にいくつもの灌漑用の溜池があるのは農地へ農業用水を供給するための大きな河川がなかったからだと思います。西部を流れる「千里川」も東部の熊野田村から石連寺村を流れる「天竺川」も細い流れの川でした。

この地図では明治43年3月に開業した「箕面有馬電気軌道(現在の阪急電車)」の路線が描かれています。「岡町駅」(当時は岡町停留場)の存在が描かれていますが、その2年後、明治45年5月開業の「曽根駅」とさらにその翌大正2年9月開業の「豊中駅」の記述がないことを見ると、この地図が明治43年から45年の間に作成されたことが分かります。

溜池の多くは戦後になって埋め立てられ公園になったり公共施設がたてられたりします。高度経済成長にともなって農地が宅地化および商業地化し、溜池としての役割を終えたことを現わしています。地図ではこの時代の街道として箕面街道と能勢街道が描かれています。現在の幹線道路である国道176号線や阪神高速道路空港線はまだその形を見ることはできません。

このページでは古い地図から時代を追って岡町駅周辺の移り変わりを検証し、昔の(私の子供の頃)思い出を綴っていきたいと思います。

2015年8月18日更新
尚、上記の地図は「今昔マップon the web」から拝借しました。
地図を拡大して見ますと、岡町駅の東側に大きな集落がありますが駅の西側には全く家がなく勝部の集落までは松林や田畑が広がっていた様子がうかがえます。駅の北西すぐにあるのは「豊中村役場」と「克明尋常小学校」「豊南高等小学校」でしょう。

駅の北東の池は現在埋め立てられて「大門公園」となった溜池です。駅の西側にも「谷田池」が今の「谷田公園」になっています。勝部へ向かう途中にある「唐川池」も戦後埋め立てられその後「法務局(後に移転)」が建てられたところです。この地図では岡町を「をかまち」と表記しています。
明治33年勝部でお生れになった森田政吉氏が残された日記によりますと、岡町駅から勝部まで1軒の家もなく辺りは綿畑や桑畑が広がって綿摘みする女性の姿が見られた、と記述されています。桑畑があったということはこの地域でも養蚕が盛んだったということでしょう。
「箕面有馬電気軌道」開業間もないころの「岡町停留場」に停車している車両の写真。当時の駅のホームは土を盛り上げただけのもので、改札口もなく駅員も居なかった。周りの木々は「原田神社」の神苑。車両は北向き(池田方面)で停車しています。
駅の周りには民家も商店もなくのどかな風景でした。能勢街道に沿って住居が集まっていたようです。
開業当時の路線図と運賃。岡町停留場周辺の見所を紹介しています。「岡町」の次が「石橋」ということは、ひと駅の間隔がかなり長い距離の区間でした。
この小冊子でも岡町を「をかまち」と表記しています。因みにこのパンフレットは「明治43年3月10日発行」と記されていますので、開業と同時に配布されたもののようです。(非売品)となっています。当時は運賃以外に「通行税」として1銭徴収されていたようです。

岡町停留場周辺の見所として「原田神社(停留場前)」、岡町公会堂(停留場前)、寶珠寺と佛眼寺(東十二町)、切通新道(北十丁)が紹介されています。
 
 箕面有馬電気軌道が開通した明治43年3月10日の新聞には、「電鉄紀念号」として一面にて沿線案内が掲載されています
 
 岡町停留場周辺の見どころの紹介記事
 
 原田神社で毎年行われる秋祭りの祭礼「獅子追い神事」の紹介記事
岡町駅北西すぐのところにあった「豊中村役場」隣の「豊南高等小学校」の卒業記念帖。大正13年(1924年)3月、父が卒業しました。
卒業記念帖の見開きページには当時の豊南高等小学校の風景ならびに川崎校長と豊中村山上村長の写真が載せられています。
時代は移り変わって戦後の地図です。昭和28年、上の1910年の地図から43年を経た岡町周辺です。岡町駅西側にも多くの住宅が立ち並び、隣接する豊中駅との間には隙間なく家々が詰まっています。「大門池」は埋め立てられ「大門公園」として現在に至っています。豊中村は豊中市になって市役所は現在の場所へ。岡町駅西側に郵便局があります。また「唐川池」はまだ埋め立てられる前です。「曽根駅」東側の「芦田ケ池」もまだ埋め立てられる前の状態でした。幹線道路として国道176号線も明確に描かれています。
このあと10数年後には阪神高速道路池田線が開通することになりますが、当時は伊丹飛行場と国道二号線を結ぶ「歌島線」が幹線道路として存在していました。



このボタンをクリックすると地図の拡大版ページが開きます。
昭和45年(1970年)の大阪万国博覧会開催に向けて、伊丹飛行場(大阪国際空港)が拡張される直前。幹線道路「旧歌島線」が「大阪池田線」となってその上を「阪神高速道路空港線」が通ることになります。この2〜3年後には空港の拡張工事が始まります。
全国的に多くの町の商店街がすたれ、シャッター通りとなっていると聞き及びます。郊外の大型ショッピングセンターに客足を取られ、時代の流れに押し流されていく商店街も多いと聞きますが、私が育ったころの昭和30年代の「岡町商店街」がこの半世紀余りの歳月の中でどのように変わってきたのか当時の地図を基にその遷り変わりを検証してみたいと思います。下の地図は昭和35年頃の商店街(当時の住所表記で桜塚元町)近辺の商店や民家などが記された住宅地図です。
まず岡町駅に近い商店街の西側入り口から能勢街道までの店の並びを見てみます。。
1960年(昭和35年)当時の岡町商店街西側入り口から能勢街道までの店は下の表のような並びだったように思います
右手入り口にあったのは電器屋のじんべえや」。この店で昭和34年4月に我が家ではじめてテレビを買った。それ以来我が家の家電製品のほとんどをこの「じんべえや」で 買い揃えた。まだ小学校4年生ぐらいだったと記憶している。このとき買ったテレビはビクターの14インチ、もちろん白黒テレビでまだカラーテレビはなかった頃です。ブラウン管の画面に緞帳が掛かってテレビの上にはビクターのマスコットで首を傾げて座っている陶器製の犬の置物がありました。

右下の広告は昭和32年12月の朝日新聞に掲載された「三菱テレビ」の広告ですが、14インチテレビが8万2500円。17インチが10万8千円という値段です。当時のサラリーマンの月給から考えると高嶺の花でした。

左下の「コロムビア・テレビ」は昭和30年3月の新聞広告で14インチ型が9万8千円。

あとのナショナルは昭和34年9月の広告では14インチ型が6万円という値段。この年の9月場所で横綱若乃花が優勝しています。

ゼネラルテレビは同じ昭和34年9月の広告で14インチ型が5万9千円という値段を載せています。

昭和34年は当時の皇太子ご成婚をテレビ中継するという話題で全国的にテレビが普及した年でした。

昭和30年から34年にかけてテレビの普及とともに価格も一段と安くなっていることが分かります。

さらにいろんなメーカーがテレビ受像機の生産に参入していた時期でもあります。
テレビが家に来るまでは専ら近所のテレビのある家に見せてもらいに行っていた時代でした。当時小学生だった私はテレビがこれほどの値段のするものだとは知らずに、『テレビ買って!○○ちゃんの家も買ったって言ってたよ』と親にねだったものでした。そして、父に連れられてテレビの購入契約に行ったのが「じんべえや」でした。その時のワクワクした気持ちは50数年経った今でも忘れられません。
「じんべえや」の隣が「USスポーツ」さらにその隣に和菓子の「亀甲堂」この2店は今も健在です。甘いもの好きの母は買い物帰りにはこの「亀甲堂」で饅頭を買って帰るのが楽しみだったようです。夏場には「アイス最中」が売り出されました。最中の皮のパリッとした食感は今でも覚えています。昔は一つひとつアイスをスプーンですくって皮に乗せていましたが、いつの頃からかプラスチック容器に入ったアイスと最中の皮がセットになって売られるようになっています。
尚、「じんべえや」は今はもう存在せずCDショップになっています。
喫茶と軽食の店「ドラン」。この店も1960年頃の地図に載っているところを見ると半世紀以上の老舗です。その横の路地が「原田神社裏参詣道」という石柱が立っている。「裏参詣道」と言っても決して商売の邪魔をする道ではありません。「売らさんけど・・・」
履物とタマゴの店「マルキ」。履物とタマゴの組み合わせとはどういう思想から来たのだろう・・・。隣の「いせや時計店」と並んで50数年前と変わらない。店構え同様店番のお婆さんもかなり年季が入っている。
化粧品の「くしや」も昔からある店。当時から洗練された雰囲気のある店構えだった。
書店「豊文堂」小学生の頃月刊マンガ雑誌「冒険王」を買ってもらうのが楽しみだった。地域の学校の教科書や「虎の巻」も扱っていた。当時の店に比べて間口が広くなった気がします。55年前は「吹田豊文堂」という店名だった。
果物店「植村商店」も健在だった
「漢方のけやき堂薬局」50数年前は「けやき堂」という昆布屋さんだった。店のど真ん中に大きなけやきの大木が植わっていて、この商店街でも話題の店の一つだった。今は開いたドアの隙間からしかけやきの大木を見ることができなくなっている。昔の店の雰囲気を知っている者にとっては少し残念。
神社の入り口手前にあるのが昔ながらの金物店「梅田屋」。昔は荒物屋(あらもんや)と言っていた。経営者はすでに代替わりしているだろうが昔の雰囲気は残っています。なんとなくホッとする店の佇まい。
原田神社の入り口鳥居前を挟んで「お好み焼き」の「やまとや」がある。この店も古い
やまとや」お好み焼きの暖簾が掛かっているが昔私が小学生の頃、冬場はショーケースの置いてある場所で回転焼きを売っていた。丸顔でポチャッとしたふくよかで化粧の濃い目のお姉さんが焼いていた。元気だったらもう80近いかもしれない・・・。夏場はかき氷やあんみつなども出していました。

この写真を撮りに来たとき偶然にも店の女将さんにばったり出会った。あの頃の”お姉さん”が今はもうすっかり”おばあさん”になってしまっていたが、ぽっちゃりとしていて回転焼きを焼いていたころの面影も残っていた。彼女は私のことなど記憶にないだろうが、懐かしさのあまり『昔、回転焼きを焼いておられたころとまったくお変わりないですね・・・』と、歯の浮くような取って付けたお世辞を思わず口走ってしまった。じつに懐かしい。
「桜塚公園」で婦人会の盆踊りで振付の稽古のあと「やまとや」に立ち寄ってかき氷を食べている姿が写真に残っている。母と叔母そして樋上さん、田辺さん姉妹も・・・。店内の壁には品書きと値段も見える。かき氷はみぞれ、れもん、イチゴがそれぞれ20円。ざるそば50円、冷しうどん40円、サイダー30円、焼きそば80円、クリームソーダが50円とは他のものに比べ意外と高い。昭和35年頃。
ここからは北側の並び(信用金庫の並びの店)
昭和35年当時商店街入り口左にあったのは「豊中信用金庫本店」。1990年代に入り金融機関の統廃合が繰り返され「水都信用金庫」に変わり、さらに「摂津水都信用金庫」に。現在は「北おおさか信用金庫」となっています。
信用金庫のとなりは「赤壁薬局」として長年営業を続けていたが数年前「かがやき整骨院」に変わって現在に至っています。
古くからある割烹料理の「鈴乃家」この店も半世紀以上の老舗です。
一度も入ったことはないが喫茶店「エーワン」も健在だった。
こちらは「土手嘉」岡町で最も古い食堂で建物も昔の雰囲気を残しています。この商店街では名の知れた店です。
高架になる前の岡町駅
岡町駅今昔―駅東側の改札口。昭和50年頃と2015年7月
ここからは「旧能勢街道」の東側の店の並びを見ていきたいと思います。「桜塚商店街」と名前も変わります。55年前は上の表のような店がな並んでいたように思います。
当時からあった自転車店「平嶋商会」経営者の代は代っているだろう。納品の自転車のハンドルを持って2台の自転車を器用に操る先代の店主の姿をよく見かけた。
お茶の「力丸」は以前「大田古書店」だった。年をめされたが店のご夫婦の顔に見覚えがある。19歳か20歳のころここでよく立ち読みした。
お香と念珠の店「てらの」。ここは昔は明治牛乳販売店だった。店の中には今も当時使っていた大きな冷蔵庫が残っている。昔は牛乳販売店といえば各地域ごとに数軒の販売店があり、毎朝各家庭へ自転車で配達して回る時代だったが、今はほとんどの家庭がスーパーやコンビニで買い求める時代になった。牛乳配達という仕事も時代の流れに押し流されて衰退し消滅に向かう業種なのかもしれない。
味噌と漬物の店「坂本商店」小学校の頃見かけたのは、店の前に幾つもの樽が並べられその上に山のように円錐形に色の違う味噌が盛ってあった。
「寿書店」は私が子供の頃は能勢街道の向こうの「けやき昆布」の隣にあった。町の小規模書店が消えていく昨今、同じ商店街に2つも本屋が存在しているのは貴重だ。
「だるまや金物店」中学生の頃自宅の改築に来ていた大工さんに頼まれて釘と針金を買いに来たことがあった。この店も今年4月で閉店した。
その後9月に訪れた時には店の建物も取り壊され更地になっていた。
ハンコと印刷の「精工社」ずいぶん間口の広い店になっていた。
「ダイソ―」の看板が掛かっている奥に昔「桜塚市場」があった。まだ小学校へ上がる前のこと、母親や叔母に連れられて来たが、よく人ごみの中で迷子になったことがある。母の和服(普段着が着物だった)の上からから着ているる割烹着の裾を握って付いていくのだが知らぬ間にはぐれてしまっていた。それほど市場の中は混雑して賑わっていたのを記憶している。今はもう見る影もない。
駅に近い西側の入り口は「岡町商店街」だったがアーケードの東側へ出たところでは「桜塚商店街」という名称になっている。
ご意見ご感想などお待ちしています。