写真集・戦前の勝部の風景

父と叔父が育った時代
豊南高等小学校の卒業アルバムから

明治7年生まれの祖父伊三郎とその妻ミヤの第三子として明治42年(1909年)、父はこの勝部の地で産まれました。
明治32年産まれと34年産まれの二人の姉と、大正2年産まれの弟との四人兄弟でありました。
祖母ミヤは大阪南部旧狭山藩の下級士族の娘として、明治9年に現在の大阪狭山市で産まれています。当時の住所は大阪府南河内郡狭山村。

伝え聞くところによれば、明治維新後、禄を離れた下級士族の生活の困窮振りは悲惨なもので、祖母が産まれたころはその日暮らしの有様で、祖父と結婚する前は現在の尼崎市塚口の彼女の叔母の家に身を寄せていました。それでも、その叔母の財力で、嫁入り道具だけはなんとか人並みの物を用意して持参したそうです。
現在、我が家には彼女が嫁入り道具として持ってきた中の一つ、総桐漆塗りの箪笥が一棹残っています。
その箪笥の小引出しには、明治28年京都市で開催された「第四回内国勧業博覧会」に出展した旨の印が残っています。

彼女が祖父伊三郎の所へ嫁いで来た頃の辻村家は、阪急岡町駅東側にある原田神社の側(現在の豊中市中桜塚あたり)で商売をしていたとのことである。何を商っていたか、またその屋号については不明である。
伊三郎との婚姻の日時は、当時の戸籍制度の改正などで確かな記録は無く、正式に婚姻届が書類上届けられたのは大正2年の12月になってからのことであった。

その後、祖父は商売を辞め、勝部の地で小作農家として4人の子供を育てる事になる。
父が生まれた翌年明治43年には「箕面有馬電気軌道(現在の阪急電車)」が開通しました。
阪急電車の創業者小林一三は、鉄道を敷くと同時に沿線の宅地開発も手掛け、当時の岡町から勝部辺りの土地の大部分は、小林一三氏の親族の所有する形となり、江戸時代からの地主との入れ替わりの時期でもあった。
こうした時代背景の中、父は14歳で地元の「豊南高等小学校」を卒業すると、家業である農業をを次いで生計を立てていくことになる。

2002年11月掲載

大正13年(1924年)父が卒業した豊南高等小学校の卒業アルバム





男女7歳にして席を同じうせず」とした時代の学校教育

女生徒の名前にも”時代”を感じさせる




明治5年に「学制」が公布されたあと、何度となくその内容が改正されてきましたが、父が就学年齢に達した大正時代は尋常小学校の6年間のみ義務教育とされ、そのあとの進路は多様な選択肢がありました。勝部の村のような農村では6年間の尋常小学校で学業を終え、家業の農業を手伝って成長していく子供たちが多かったようです。

当時の学校教育は6年間の尋常小学校の後、2年間の高等小学校があり、尋常小学校を6年で卒業した後、高等小学校へは行かずに5年制の中学校(旧制=男子のみ)へ進む子もいた。そして、その先に高等学校(旧制)や専門学校(旧制)へ進学する道がありました。

女子の場合は裁縫学校や高等女学校への進学の道がありましたが、上級学校へ進む子は一握りの存在でした。
また、教師を目指す生徒には「師範学校」という教員の養成を目的とする学校もあり、子供の進路を選ぶ道はそれぞれの家庭環境によって多様でした。

明治中期には義務教育制度が確立し、父が卒業した頃の就学率は9割を超えていた。しかし、その上の中学校へ進学するのは、地主や裕福な家庭の子弟が殆どで、庶民の子供たちは尋常小学校あるいは高等小学校を出ると、家業を手伝ったり商店に勤務したり、実社会に出て働くのが一般的でした。

当時の農家の親たちは、特別な事情がない限り、子供が最低限の読み書きと算盤や算術ができれば十分社会へ出て生きて行けるものだと判断していました。
また、豊南高等小学校の同じ敷地内には「裁縫学校」という教育施設もあり、当時から女子教育にも熱心に取り組まれていたことが判ります。

この時代この地域で尋常小学校修了後、高等小学校へ進む子供が7割程度。中学校や女学校へ進学する子は1割未満。6年間の義務教育を終えると、進学しないで家業(主に農業)を手伝ったり、商家へ奉公に出る子供が約2割程度いたことが記録に残っています。

当時の親の考えは、尋常と高等小学校の8年間で充分社会へ出て生きていける、というのが大勢だったし、世の中の仕組みがそのようにできていた時代でもありました。


明治43年3月に開業した箕面有馬電気軌道(現阪急電車)の開業間もない頃の岡町停留場。当時のホームは土を盛り上げただけのもので、駅の周りには民家や商店も無かった。まわりの森は原田神社の神苑。
上に掲載する地図は「箕面有馬電気軌道(現阪急電鉄)」を開通させたあと、沿線の土地を開発して住宅地として売り出した当時の「岡町住宅経営(株)」の販売区画地図です。

「岡町停留場(現岡町駅)」西側は勝部の村を含む千里川以西から伊丹市に隣接する辺りまで広大な田畑や桑畑が広がる農地であったが、これらの大部分は買収され小林一三氏の親族および親族の経営する会社の所有となりました。

これによって江戸時代からの地主の勢力図が大きく入れ替わり、自作農家が小作人に転落するケースが目立ちました。

当時の岡町駅は周辺には裁判所、村役場、郵便局、警察署などがあるように、この地域の行政の中心地であり、「豊南高等小学校」も豊中村役場に隣接していて、第一克明尋常小学校、裁縫学校など教育施設も集中していました。
現在この場所には「岡町図書館」が建っています。

ここから下の写真は同じく「豊南高等小学校」昭和3年の卒業アルバム


大正13年の卒業アルバムでは、最前列はゴザの上に正座であったが、ここでは椅子に腰掛けている。
さらに、詰襟服の生徒の姿も少人数ではあるが見られる。大正から昭和に掛けての時代の変化の移り変わりと言えるのかも知れない。

父の弟で4歳下の大正2年生まれの伯父は「忠組」



こちらは「孝組」










クラブ活動としてスポーツも盛んだった様子が写っている。女子は陸上競技。男子はバスケットボール。




この当時の豊南高等小学校は、現在の岡町図書館辺りから克明小学校の辺りにかけての場所にあった。校区は桜井谷、麻田、豊中、熊野田、南豊島、中豊島、小曽根と、かなり広範囲だった。
遠い所では片道4キロ以上の通学距離になる。おそらく毎日みんな歩いて通ったのだろう。



昭和三年の叔父伊太郎の卒業アルバムの見開きには、彼自身の手による文章が書き記されている。母校を去るにあたっての、少年らしい感傷的で素朴な感情が表現されています。

その叔父も、卒業後は岡町郵便局(現豊中郵便局)に就職。昭和15年26歳のとき母ミヤの遠縁にあたる南河内郡狭山村(現大阪狭山市)の谷野新太郎長女イトエ(20)と結婚。

勝部43番地にて新婚家庭を築く。新婚間もない昭和15年12月1日招集令状が届き、歩兵第八連隊補充隊に臨時招集され出征。その時妻イトエは初めての子を身籠っていた。

その後フィリピン戦線に従軍。途中ルソン島バギオから家族へ手紙と写真が送られてきたこともあったが、昭和20年8月10日マニラから東へ約30キロのアンチポロにて戦死。

その戦死公報が届いた8月20日は母親ミヤが息を引き取った日である。一人残され25歳の若さで未亡人となった妻イトエは実家のある狭山村大字今熊に戻り、谷野家に復籍する。その後再婚したが数年後新たな嫁ぎ先で病死したと伝えられている。