定点観測・豊中あちらこちら
服部界隈〜利倉東(2007年6月20日更新)
服部住吉神社
阪急服部駅の東約300メートル程の所に、ひっそりと佇む小さな神社がある。服部住吉神社、この神社は、大阪の住吉大社の別宮として創建されたものです。
服部駅から少し離れた天竺川沿いにある住吉神社は、駅近くにある「服部天神」に比べ訪れる人も少ない。
上の写真は昭和30年代半ば頃の住吉神社での秋祭りの集合写真。当時の服部南町の子供たちの姿。

本殿は昭和36年に改築された。
利倉東
服部駅から西へ約1キロメートル、阪神高速道路空港線の手前辺りが利倉東。かつては大阪空港への着陸コースの真下にあり、騒音の激しい地域であった。立ち退きになった跡地はフェンスで囲まれている。(写真下)
昭和30年代半ば頃の利倉東1丁目付近。写真右の金網の中は大阪商業高校(現大商学園高校)
下の写真は現在の同じ場所。
現在の大商学園高校は生垣で囲まれている。当時の農業用水路は暗渠になっている。
大商学園高校の正面入り口

上の写真は明治36年3月19日「南豊島尋常小学校」第14期生の卒業記念写真です。いまから百数年前の卒業写真です。これは勝部の江戸時代後期から明治期ににかけて庄屋だった田辺家に残っている写真です。

当時子供と言えども貴重な働き手として、家業の手伝いや商家への奉公に出る子供も多く、就学率は低かった。このように卒業まで学業を続けられる子供は比較的裕福な家庭の子弟だったろう。生徒はすべて着物に下駄やワラ草履、中でも最前列右端の女の子は袴を着けて足袋に草履という、見るからに裕福な家庭の子供のようだ。

当時の
「南豊島尋常小学校」は現在の「JA大阪北部農協南豊島支店」がある利倉東にありました=(写真下)。小学生の子供が通うにはかなりの距離があったが、勝部から通学していたことが判る資料です。

明治時代の就学率について
明治5年の学制布告により国民のすべてが就学しなければならなくなりましたが、当初は小学校も授業料を納めなければならず、親や保護者にとっては経済的負担になるだけでなく、子供と言えども貴重な働き手であった時代のため、子供を学校に通わせる親は少なかった。

明治中期までの就学率は地域差があるものの約50パーセント台だったというデータがある。但し、男女格差が大きく、女子の就学率は低く20〜30パーセント程度だった。これは、「女に学問は必要ない」と言った旧弊な概念が色濃く残っていた時代でもあった。

そののち明治28年頃から急激に就学率は上昇する。それは日清戦争後近代産業が発達し、国民の生活水準が向上。国民の学校教育に対する認識の変化、さらには明治30年代に入って小学校の授業料の国庫負担など教育を受ける条件が良くなったことによる。
明治後期になると100パーセント近くまで就学率は上昇した。
当時の政府は資源の乏しい国ゆえ、子供への教育が国家の発展に直結することを痛切に感じていた時代でもありました。

利倉東1丁目にあるJA大阪北部農協南豊島支店(旧南豊島農協)。この場所はかつて「豊能郡南豊島尋常小学校(写真上)」があった場所である。
遠く勝部からも生徒が通学していた。今は昔の面影はどこにも無い。

服部緑地公園
緑の少ない大阪にあって、子供の頃より遠足に散歩にスポーツにと多くの市民に親しまれてきた「服部緑地公園」。確か小学校1年の遠足と中学2年の時の運動会がここ「服部緑地」だったと記憶している。
服部緑地公園正面から入って真っ直ぐ行った所に「円形花壇」がある。昭和34年、当時の皇太子の結婚の慶事を記念して造成された。当時は「花時計」と呼ばれていて、真ん中に大きな時計があった。
上の写真は昭和30年代半ば、造成間もない頃の展望台。遠足などでのお弁当を広げる場所でもある。
現在の展望台の周りには季節の花が植えられていて、昭和30年代の殺風景な景観とは比べ物にならないほど整備が行き届いている。
 服部緑地公園の円形花壇。「花時計」とも呼ばれていて緑地公園の目玉的存在だった。
 
 1960年(昭和35年)10月当時の「円形花壇」
 
 「円形花壇」の前で原田小学校の生徒たち。(昭和35年10月)
 
 1960年(昭和35年)10月、服部緑地内陸上競技場より「旭ヶ丘団地」を望む
昭和30年代半ば、服部緑地が開園して間もない頃の「花時計」の周りの植え込みで写した写真。
当時の勝部の子供たちが映っている。地区の子ども会の遠足のようである。年齢も様々だ。