個人的体験 その四

又・心筋梗塞体験記

救急車で搬送されて危ういところを命拾い。しかし、この時まだ私の心臓の冠動脈の1本は塞がったままの状態だった。股間の動脈からカテーテルを入れたまま、さらにおチンチンにも尿の管を入れたまま1週間が過ぎた日、主治医から『もう一度試みてみましょう』と言われ再び手術室へ。全裸にされ、T字帯と呼ばれるサラシの越中フンドシのようなものを着用して、冷たく硬い手術台の上に寝かされた。

執刀医は救急車で搬送された時のメンバーと同じ循環器部長と若い医師の二人。造影機器などを操作する技師もあの時と同じ。そしてあの日手術台でいきなりおチンチンに管を入れられて、絶叫しながら睨みつけた看護婦も。
そのほかに、若い看護婦が二人、メモ帳を持って手術の流れを見学している。あとで判ったことだが、この若い看護婦達は一般病棟の循環器内科担当の看護婦だった。

様々な機器が付けられ、造影剤を注入され手術が始まった。
あの時に比べ、冷静に手術の様子を観察することが出来た。モニター画面を見ながら、検査技師と執刀医が血管内で操作する器具や、その先端に取り付けられている風船に気圧を加える加減を確認し合って、カシャカシャッと造影の音。『ハイッ、そこで深く息を吸って、・・止めてください』これを何度となく繰り返す。そのたびに胸が押しつぶされるような圧迫感。動脈の中に挿入する器具も幾種類も有るらしく、新しいものの封を開けて取り替えること数回。その都度、器具が抜かれていくときには、血管内を胸から肋骨をかすかに物体が移動していく感触がある。

そして、股間では執刀医が動脈の切り口から器具を操作する動きが、局部麻酔のかかった身体に鈍い重圧を感じさせている。それはさながら風呂屋の煙突そうじを連想させる。
手術が始まって1時間半ほど経って執刀医が、『辻村さん、どうやら塞がった血の塊が硬くなっていて、これ以上はちょっと無理のようです。今回はここで止めて置きます』と。

そして再び集中治療室へ戻された。股間の動脈からカテーテルも抜かれ、切開した部分に重しを乗せられ粘着テープで固く固定されて、この状態で6時間の安静。そしてその翌日にようやく一般病室に移されることを告げられた。主治医からは、今後の治療方針については投薬治療を続けながら、時期を見てもう一度カテーテルを試みてみます。と言う説明を受けた。

話は変わりますが入院から一週間、この間一度もウンチが出ていない。食べる量も少なかったが、普段なら毎日必ず一度は便通があった。それが入院以来この一週間出ていないのだ。

4日目あたりに一度便意を催して、看護婦さんにそのことを告げると、白い琺瑯製のオマルを持ってきてお尻の下にあてがってくれて『出たら呼んでくださいね・・。』と言ってカーテンの向こうへ消えていった。
ところが、オマルをお尻の下にあてがわれた瞬間に便意が喪失した。その二日後にも催してきて、オマルを入れられて『今度こそ!』と下腹部に力を込めるのだがダメ。オマルをあてがわれた瞬間に肛門が収縮してしまうのだった。

それと、自分の排泄物を他人に見られることの恥ずかしさ、または、出た後のお尻の汚れを始末してもらう姿を想像して湧き上がる屈辱感などが合い混ぜになって、心理的にも出にくくなっているようにも思った。病人ならば、下の世話をされることは当たり前のことなのだが、この時の自分にはその覚悟が出来ていなかった。

そして、やはり健康な人間は仰向けに寝たままの状態ではウンチは出ないものなのだ。しゃがんだり、座ったりしてこそ排便ができるもので、あるいは、寝たきりの状態になって、やむを得ず寝たままの状態で排便するしかない身体になって初めてそういうことができるのだと思う。

一般病室に移される日の朝、おチンチンの管も抜かれ下半身に何のわだかまりも無くなってスッキリとした状態で、ようやくベッドの上で起き上がることが許された。でもまだ歩くことは出来ない。腕には点滴の針とチューブが入っている。鼻には酸素吸入器が。ベッドの上であぐらをかいて座っていると再び便意を催してきた。今度はポータブル・トイレをベッドの横に置いてもらった。便座に腰を下ろして間もなく、湿ったガスの出る音とともに待望のウンチが大量に出た。このときの爽快感は格別だった。
ここで初めて『ああ・・、命が助かったんだ』と、新たな実感が沸いてきた。
入院から8日目のことだった。

一般病室に移ってからは気持ちにもゆとりが出てきた。腕には点滴の針が入ったままだけれど、トイレには看護婦さんが付き添ってではあるが、自分の足で歩いて行くことができた。8日ぶりに自分の足で歩いてみて、何かフワフワした感じだったが、確実に自力で歩くことが出来たことに、何か晴れ晴れとした気持ちになった。『自分はいまこうして生きているんだ』と実感した。

同室の他の患者たちともすぐに打ち解ける事もできた。トイレに行ったり歯を磨いたりと、少しづつ身体を動かすことで食欲も出てきた。集中治療室に入っていた時は、出された食事をすべて平らげることはなかった。ウンチが出なかったこともあって、いつもお腹が張ったような感じで、さらに尿道の管や股間のカテーテルの存在が、心理的に食欲を抑制していたように思う。

一般病室に移って三度の食餌の内容も少し変わった。朝はパンと牛乳と果物と変わりないが、昼と夜はそれまで”おかゆ”だったのが普通のご飯になった。おかずは野菜の煮たものや卵とじ、白身魚の煮付け、鶏のムネ肉やササミの蒸し物など、食材から脂分を完全に排除した献立だった。味付けも薄味でそれまで普段食べていた”ご飯のおかず”の内容からはかけ離れた食餌になった。

しかし、流し込むだけの”おかゆ”の食餌に比べ、咀嚼することで食欲を増進させるという相乗効果も生まれ、日が経つにつれ食への欲求は高まっていった。
そして、その食べることへの欲求はテレビの食べ物の番組で一層掻き立てられることになる。

集中治療室から一般病室に移って病院内での生活に変化が生じたのは、看護婦さんの顔ぶれが代わったことと、面会謝絶が解けて見舞い客が多くなったこと、それとベッドの横にテレビが備えてあることぐらいだった。

毎日のスケジュールは集中治療室のときと同じく、検温、採血、血圧測定、主治医の回診。それ以外は何もすることがない。これらのスケジュールもすべて受身である。仕事をしている時と比べればたっぷりと時間がある。こういう時こそゆっくりと本でも読めると思いきや、それが案外読めたものではない。気持ちが読書に集中できない。本を広げても10分と持続できない。何故だか判らないが、読書をする心境になれない。そしてついついテレビに見入ってしまうことになる。

時期は丁度甲子園で高校野球の真っ最中。見舞い客の来ない時はほとんどテレビに明け暮れていたように思う。野球放送が終わった後も、自堕落にテレビ画面をダラダラと見続ける毎日が続いた。今でもそうだけれど、当時もテレビ番組はやたらと食い物の番組が多い。安易な企画と安あがりな制作費が露呈した愚劣な番組が氾濫していることに、いささか嫌悪していた一人であったが、ついつい見てしまっていた。

そして不覚にも、この手の番組を見て食欲をそそられるという、情けない有様であった。愚劣で安直な”食い物の番組”が、極端に制限された食餌療法下の患者にとっては、必要以上に食欲をそそることになる。
特に、脂っこい物、こってりした味の濃い食べ物の映像を見ると、無性に食べたくなる。

食べてはいけない、食べる手だてがない状況に置かれていることが、なお一層欲求を高めてしまうのだろうか。”たこ焼き”の番組を見ては、『あぁたこ焼き食いたい!』と思い。餃子の特集番組を見ては、『餃子食いたい!』と、見る番組ごとに"食いたい!"思いがつのってくるのだった。

一般病室に移って入院生活に少し慣れた頃から、暇つぶしに『入院日記』を書いていた。それと、入院中に見た夢を『夢日記』として書き留めていた。いまこれを読み返してみると、その時の切実な思いが綴られていて、今更ながら懐かしくもあり可笑しさがこみ上げてくる。その一つを紹介すると。

7月25日、今すぐ食べたいもの。
@ 抹茶ソフトクリーム
A 水ようかん
B マクドナルドのてりやきハンバーガー
C 焼肉カルビ
D カレーライス

7月28日
@ こしあん入り蒸しパン
A ドラ焼き
B 飲むヨーグルト

この時の状況では到底口にすることが出来ないものばかり。ましてや自分で買って食べることも出来ない。見舞い客が差し入れてくれる可能性も無い。ただただ”食べたい”という思いがつのるばかりの日々だったように思う。
このようにして、1ヶ月の入院期間の後半は、食べ物に対する欲求との戦いの毎日だった。

この続きはまた後日に・・・。2006年3月21日更新
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